遠雷(第75編)

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リリーちゃんは変わった

治多 一子

 リリーちゃんは生まれるとすぐ門前に捨てられ、拾われて今はK寺院の立派な一員になっている。
 よくお参りする私の顔を見覚えていて、いつも尾を振ってくれるので、ついかわいくなり、彼女の大好物の海苔(のり)を行くたびに与えた。そのときは、いつも自分からちょこんとお座りし、じっと私の顔を見て、小さくワンとほえる。その所作がまた、やろうな≠ニいう気を起こさせる。
 ところが、二、三回与えない時が続いた。すると現金なもので、私の顔を見ても尾を振るどころか、完全に横を向いてしまった。
 その時、ハッと思い出したのが貞極上人(一六六七−一七五六年)のお話である。学僧だったお上人の数多い著書の一つ「蓮門住持訓」に「何時(いつ)も貰(もら)っていた人が、貰えなくなったとき、恩を忘れかえって不平不満を持つから、与える時に心せよ」というくだりがあるそうだ。
 何もやらなかったときには、あんなに親しさを示していたリリーちゃんなのに…。
 私はずっと月曜日に、U先生の手作りのお弁当を頂いている。三つ作るのも四つするのも同じ、おかずもありふれたものだから、と言って下さる。自分で作ったり買ったりしたのは中身が分かっているが、彼女のはふたを取る瞬間まで何が入っているのか分からず、楽しみである。
 今日は日曜日。明日はU先生のお弁当の日である。あてにするのはあさましいと思いつつ、お世辞にも美人とはいえない彼女の、巧まぬ誠実さがにじみ出た理知的な笑顔を思い浮かべている。そして貞極上人の説教を肝に銘じて、決してU先生が嫌な思いをされぬように、と固く心に決めた。
 さて、以前とすっかり態度が変わったリリーちゃんに、私はどう対処したらよいのか、とつおいつ考える秋の夜長である。

昭和60年(1985年)10月20日 日曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第75回)

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