ある日突然
治多 一子
読みさしのデアンドリアの「ホッグ連続殺人」を手に取ったとき、挟んでおいた一枚のはがきが落ちた。今年三月に退職したHさんからの挨拶(あいさつ)状である。
かつて、職員室で昼食後、雑談していたら、
「いつも兄ちゃん、ボール拾って≠ニ頼まれた近所の子供に、ある日突然おっちゃん拾って≠ニ言われ、ガックリした」
と青年Hさんは言った。同じ思いか、一人が、
「若いと思っても、子供はちゃんと区別するのだなあ」
と深くうなずいていた。これは三十余年前のことである。Hさんといえば、この話がいつも思い出される。
Hさんは、もうこの世にいない。ある日突然、私は彼の死を告げられた。退職後まもなく発病、その後急速に悪化し亡くなられたとのこと。
管理職として新設高校での苦労、加えて国体会場となっての気配りなどがHさんの身体をむしばんでいったと聞かされた。
教頭にならなかったら、校長にならなかったら、かくも死期を早めることもなかっただろうに。教頭試験制度がなかったら、と思わずにおられない。
かつて同僚だった人が管理職になって早く亡くなった例は幾つもある。それだけ激務なのだろう。管理職にある人たちの後ろ姿に極度の疲れが見えることは、実に寂しい。
鳴り物入りで出発した共通一次試験も、もう再検討されている。四十年代にできた教頭試験制度も、いま一度見直してほしい。これこそ完ぺきだというものは、この世に存在しないはずである。
管理職という立場のために、あたら有能な人たちを早く死に追いやったと嘆いているのは、決して私一人ではない。
Hさんは、この世でもう字を書くことができない。達筆で書かれた挨拶状のあて名を私はじっと見続けた。
今年も紅葉の季節が早くも終わろうとしている。
昭和60年(1985年)11月27日 水曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第76回)
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