遠雷(第77編)

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侍従長と彗星

治多 一子

 「先生だったら二、三回見られるで」
 「そんなら、私はバケモノか?」
 ハレー彗星(すいせい)を今見ないと、次の七十六年先ではネ、と言ったときの生徒との対話である。
 戦中、学徒動員で軍需工場、兵器補給廠(しょう)など、みんないろんな所で働いた。
 私たち数学科の者だけは学校で海軍水路部の仕事をした。
 海軍将校が下士官を伴い、仕事の連絡に現れた。天測表の資料作りが私たちの仕事である。星を使ったそれが、船舶の運行に絶対欠くことのできない海軍水路部発行の本の一部になるのである。私たちは、来る日も来る日も計算の作業に専念した。
 その時、いろんな星座や星の名を覚えた。だが、戦い終わり、随分たった現在、さほど興味もなかったので、ほとんど覚えていない。
 先日、私は東京の信濃町・千日谷会堂で行われた入江侍従長の葬儀に参列した。次々と述べられる弔辞に、今更のごとく立派なお人柄がしのばれた。いつお会いしても、侍従長の柔和なお顔と優しく静かなお声は変わらなかった。それを思い出し、また新たな涙が浮かんでくるのだった。
 最後に喪主のあいさつがあった。静かな、不思議なほど澄んだ声であった。
 「…父はハレー彗星を見ることを大変楽しみにしていました。十二月二十七日、私は、ひざの上で抱いて父に見せます。それから京都の寺に納骨いたします…」
 途中で絶句された。あちこちで鼻をすするのが聞こえた。あの立派な体格の侍従長が、あんな小さな箱の中で…と思うと、涙がとめどもなく流れた。
 私は今晩、N学園の校庭で彗星を見ている。見たいと願った方が見られず、さほど関心のない者が見ることができるとは。かねがね切望し続けた人の希望がかなえられず、思わぬ人にそれが実現するなど、ご縁があるとかないとかの定めこそ「この世」なのであろうか。
 中天に輝いていたオリオンが、校舎の裏山に、もう沈もうとしている。

昭和61年(1986年)1月17日 金曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第77回)

随筆集「遠雷」第36編

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