遠雷(第84編)

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母 校

治多 一子

 「いい写真見せましょう」
 教頭のT先生は職員室から出ようとする私に声を掛けられた。瞬間、先生方のだれかの、面白い、またはお祝いの写真かと思った。
 だが、茶色の封筒から取り出されたのは違っていた。古い三枚の四つ切りの白黒写真で、その一枚にはチューニック服を着、縦隊に整列した若者の後ろ姿が写っている。
 「これは海軍経理学校の生徒ですよ」
 「ヘエー、どうしてこんな写真が…」
 「ここが海軍経理学校だったのですよ」
とT先生のお話。
 戦争当時、私は東京にいた。だから、柳本に飛行場ができ、七つ釦(ぼたん)の予科練生が訓練を受けていたとは知らなかった。
 また、幾つかの女学校が、学校工場となり、軍関係の仕事をしていたことも、終戦後K先生から教えてもらって初めて知ったくらいである。
 まして、奈良から遠く離れた、橿原市で軍関係の学校があったことなど、知るよしもない。
 「この人たち、戦争に行ったのですか」
 「いや、行ってませんよ」
と教頭先生の明るい声。
 ああ、よかった。だれも死ななかったのだ。
 昭和二十年四月開校、八月二十日廃校の実に短命の学校で、彼ら六百人は在校中に終戦を迎えたのであった。
 T先生はさらに、
 「この人ら、八月十日にここで同窓会をするのですよ」
 彼らにとって、この畝傍高校は母校だというのである。当時、本家の畝傍中学(旧制)の生徒は、机、椅子(いす)を運んで晩成小学校へ移転したと、あのころを知る畝中の後輩の一人が語ってくれた。
 終戦記念日を、数日後に控えて、当時の指導教官杉山績氏(空母赤城の乗組員)を囲んでの同窓会、彼らの胸に去来するものは何だろうか。
 机上に置かれた、もう一枚の写真はヘリコプターから写されたものだろうか。全校生徒がグラウンドいっぱいに、実に整然と並んでいる。右上に大きく畝傍山が写っている。
 まさに「国破れて、山河あり」 である。

昭和61年(1986年)8月11日 月曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第84回)

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