水 虫
治多 一子
久しぶりにFと出会って四方山の話をしていたら、何を思ったのか
「あんたの小学校はないわネ」
唐突に、彼女は言った。
「そうよ、何もないわ」
「私の学校もよ」
寺跡だという、大きいイチョウの木のあった、私の母校、男子師範附属小学校の地に県文化会館が建ち、彼女のいた郡山小学校の地には西友のビルが建ってしまった。
「私たちの女学校もなくなったわネ」
五年間同じ組だったFが、園芸の時間にはまり、スカートが広がって、浮いた浮いたしていた池が消えた。赤いサルビアが夕日に映えて咲いた花壇もない。その地に女子大の校舎が建ってしまっている。また、私が四年間過ごすはずの寄宿舎も、東京大空襲の日に灰燼(かいじん)に帰した。
再び見ることのできないこれらのことを思いながら、ふと昨日通った平城宮跡のことを考えていた。私たちの過ごした学校のように、ビルが林立してしまっていたら、どうだろう。
当初こそ
「平城宮の跡ですよ」
と言っていても、長い年月の間に
「宮の跡ぢゃげな」
と変わり、段々と薄れ
「せやろか」
になり、遂には、そんなことに携わる人以外に忘れ去られてしまう。今のように、立派に保存されたことは実に素晴らしい。
幕末における、藤堂藩士北浦定政の平城宮の研究。明治になって、それを取りあげ発展させた関野貞東大教授の研究。これが奈良市在住の植木職の棚田嘉十郎氏の心を動かし、その半生を平城宮跡の保存顕彰運動にささげることとなった。
氏は運動の費用捻出(ねんしゅつ)のため土地すべて抵当に入れ、家族は極貧の中で生活した。この人たちの働きの上に、平城宮跡が未来永劫(えいごう)に残る今日がある。
さて、私の過ごした寮生活は、当時撮ったアルバムも焼け、今は何も残っていない。だが寮の大浴場のマットでうつった水虫は、毎年シーズンになると、左足小指にカユカユ病が発生する。私の歴史の中に生き続ける、たった一つの寮生活の名残(なごり)である。
昭和61年(1986年)9月15日 月曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第85回)
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