遠雷(第87編)

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K中伝説

治多 一子

 時間の許す限り、時には無理にも時間をつくってテレビの時代ものを見ている。
 「必殺もの」は初め善人がやられるので見づらいが、黄門さんのこの紋所が目に入らぬか≠フくだりはワンパターンであるが、勧善懲悪がはっきりしているので安心して見ておられる。
 「単純やな、先生は」
 「教養がないな!」
と生徒にボロクソに言われるが、それに耐えて、しつこく見ている。悪玉の代官や奉行や国家老が、
 「ものども出合え、出合え。彼奴を斬(き)れ!!」
とわめく。たちまち奥の方からダダダッと家来どもが出て来て、立ち回りが始まる。ワルの大将は後ろに隠れ、小者、その他が矢面に立たされ、われらのヒーローにやっつけられる。
 こんなことは何も時代劇に限られたことではない。現実にいくらでもある。いつも泣きを見るのは弱きもの、力のないものである。
 大正の初期の話。奈良県立のK中学(旧制)で、ある通学生と寄宿生との感情の行き違いが、全通学生と寄宿舎生との決闘事件にまで発展した。
 他人の間の争いより、近親憎悪からの争いの方が、実に深刻で壮絶であると言われる。この場合もそうだったのだろう。血気にはやる生徒たちは日本刀まで持ち出し、まさに血の雨を降らさんものと、一触即発の折、
 「この百尾を殺してからやれ!」
と両者の間に素手で立ちはだかったのが、当時のK中校長の百尾喬利先生であった。命をかけて、教え子を守ろうとするその気迫に、さしもの果たし合いも事なきを得たのであった。
 先生は嘉永六年、彦根藩士百尾喬正氏の二男として生まれ、先祖に、あの有名な林子平がいたという。明治十年、西南の役に抜刀隊員として功ありとも聞く。
 先生は、見栄でも、ハッタリでもなく、ただ教え子と生死をともにしようと、されたのであった。私はこの話を、半世紀以上も前の幼い日に聞いたのであるが、その衝撃的な感動はいまだに忘れられない。
 スイッチを押すと、
 「上さまとてかまわぬ、斬ってしまえ…」
と悪家老が醜い顔でわめいていた。
 暴れん坊将軍≠フ一コマである。

昭和62年(1987年)1月12日 月曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第87回)

随筆集「遠雷」第41編

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