K中伝説
治多 一子
時間の許す限り、時には無理にも時間をつくってテレビの時代ものを見ている。
「必殺もの」は初め善人がやられるので見づらいが、黄門さんの〝この紋所が目に入らぬか〟のくだりはワンパターンであるが、勧善懲悪がはっきりしているので安心して見ておられる。
「単純やな、先生は」
「教養がないな!」
と生徒にボロクソに言われるが、それに耐えて、しつこく見ている。悪玉の代官や奉行や国家老が、
「ものども出合え、出合え。彼奴を斬(き)れ!!」
とわめく。たちまち奥の方からダダダッと家来どもが出て来て、立ち回りが始まる。ワルの大将は後ろに隠れ、小者、その他が矢面に立たされ、われらのヒーローにやっつけられる。
こんなことは何も時代劇に限られたことではない。現実にいくらでもある。いつも泣きを見るのは弱きもの、力のないものである。
大正の初期の話。奈良県立のK中学(旧制)で、ある通学生と寄宿生との感情の行き違いが、全通学生と寄宿舎生との決闘事件にまで発展した。
他人の間の争いより、近親憎悪からの争いの方が、実に深刻で壮絶であると言われる。この場合もそうだったのだろう。血気にはやる生徒たちは日本刀まで持ち出し、まさに血の雨を降らさんものと、一触即発の折、
「この百尾を殺してからやれ!」
と両者の間に素手で立ちはだかったのが、当時のK中校長の百尾喬利先生であった。命をかけて、教え子を守ろうとするその気迫に、さしもの果たし合いも事なきを得たのであった。
先生は嘉永六年、彦根藩士百尾喬正氏の二男として生まれ、先祖に、あの有名な林子平がいたという。明治十年、西南の役に抜刀隊員として功ありとも聞く。
先生は、見栄でも、ハッタリでもなく、ただ教え子と生死をともにしようと、されたのであった。私はこの話を、半世紀以上も前の幼い日に聞いたのであるが、その衝撃的な感動はいまだに忘れられない。
スイッチを押すと、
「上さまとてかまわぬ、斬ってしまえ…」
と悪家老が醜い顔でわめいていた。
〝暴れん坊将軍〟の一コマである。
昭和62年(1987年)1月12日 月曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第87回)
随筆集「遠雷」第41編
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