花の松
治多 一子
きょう興福寺五重の塔の下を通った。全く久しぶりのことである。ここへ来ると、いつもYちゃんと遊んだ日のことを思い出す。私たちは、花の松の下で待ち合わせ、おん祭のあとを見て回った。大きな釜(かま)でクリを焼いているのが、おいしそうだったので、Yちゃんは
「おっちゃん、そのクリに虫入ってないの」
「ワシゃ、毎年この場所で店出してるから、そんなの売らんよ」
二人は一袋ずつ買い、そのあと、サーカスの看板などを眺めて、再び、花の松の前に戻って、サヨナラした。帰って食べようとしたクリは、一つとして、まともなものはなく、みんな捨ててしまった。
待ち合わせの場所にした花の松は、弘法大師お手植えと伝わり、その姿態は南都一の名木と言われていた。幹囲一丈九尺、高さ八丈二尺、枝張り東西十八間、南北二十二間、興福寺東金堂前にその威容をほこっていた。だが、あれから遠くない日に枯死してしまった。それは昭和十二年のこと。当時を知る人は少なくなってしまった。
先月、恒例の特別拝観で友人と法華寺を訪れた。世に「仙洞うつし」といわれる庭園は実に優美で、なかんずく、池のカキツバタの紫の花が、新緑に映えてひと際美しく、しばし平安の昔に生きている思いをした。声もなく、友もただ見とれていた。
今は、すっかりカキツバタの咲く美しい庭園のイメージに定着してしまった。
だが、半世紀近くも前に、縁あって拝見した庭園の池にはカキツバタはなかった。世にも珍しいとされていた大輪のハスの花が大きな葉の間に、西方浄土もかくやと思わせるように、池一面に見事に咲いていた。
十一面観音さまが、あのハスの上をお歩きになったのではないかと、まるで白昼夢を見る思いであった。
あの桃源郷を知る人は、もうほとんどないのではなかろうか。神社、仏閣の建物は保存され、千年経たものも多くあろう。が、生命短き植物は、それぞれの時代に神社、仏閣とともに歴史の中に生き、その生命を終わってしまう。
そんな植物は数多くあったことだろう。当時をしのぶ絵画、写真展などで現代人に知らせてほしいと思う。年を追って懐旧の念が強まるというのも、私だけのことであろうか。
「あのおっちゃん、うそつきや」
と言ったYちゃん。半世紀たった今、同窓会誌の彼女の住所欄は空白である。
昭和62年(1987年)6月29日 月曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第88回)
随筆集「遠雷」第42編
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