遠雷(第89編)

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お百度参り

治多 一子

 先日、思いがけずS先生から電話があった。先生のお声に接するのは、女学校以来初めてのことである。
 「私も七十三歳になったわ。K大に三月まで勤めたけれど辞めて今、娘の近くに住んでいるのよ」
 元気でいらっしゃったのが、無性にうれしい。私が女学校二年の時、病気で退職された先生である。当時、一日も早く治って下さるようにと、友のYとOの三人で相談し、二月堂の仏さまに願をかけることにした。
 興福寺の南円堂のヒトコト観音さまには、一つだけお願いしたら聞いていただける。また、二月堂のお百度踏みをしたら、病気を治して下さると、古都奈良では昔から言い伝えられ、いずれもお詣(まい)りする人が絶えない。
 私たちは、だれにも言わず、二十一日間、毎日お堂のまわりを百回回った。もちろんS先生はご存じない。純情だったなあと思った。
 それにつけ、かつて勤めた公立高校でのことを、ゆくりなくも思い出した。時間中、私語する男生徒に注意すると
 「そんな、細かいこと言ってたら、嫌われてだれも葬式にきよらへんで」
 「来ていらんわ」
とすかさず言い返した。また演習問題をしない女生徒に、問題集で頭をコツンとたたくと
 「暴力教師やと教育委員会に言いに行くで」
という彼女に、私は間髪を容(い)れず
 「言うて、言うて。私は一度暴力教師といわれたかったわ」
と、言い返した。
 病気の完治を願い、三人でお百度参りをした私たちの生徒時代と、あまりにも違うのは、私の不徳か、はたまた、それが今の時代ということなのか。
 そんな思いの折、日ごろやんちゃなTとMが
 「センセ、ボクらの塾の先生、病気悪いです」
 沈んだ顔して私を見るなり言った。小学生の時、一年間習っただけというのに、五年もたった今も、なお師の身を案ずるあまり、何のつながりもない私にさえ心配を訴えるとは…。
 今でも、こんな純情な生徒がいるのだなあとジーンと来た。
 ところで、あの時お百度踏みした三人組の一人Yは奈良を去り、今は両親の故郷九州に住んでいる。Oは師に先立ち、胸の病で不帰の客となった。それは、私が学徒動員で、東京赤羽の陸軍兵器補給廠(しょう)で、兵器のこん包に明け暮れていた時のことであった。

昭和62年(1987年)8月17日 月曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第89回)

随筆集「遠雷」第43編

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