遠雷(第90編)

掲載年リストへ   題名リストへ  前編へ  次編へ

勧進帳

治多 一子

 ああ、遅刻してしまう。いつもより早く出て来たのに
 先日、思わぬ車の渋滞に、イライラして幾度も時計を見た。前方の信号が青に変わっても、ほとん車は動かないのである。長い長い車の列が左右にも続いている。法隆寺を訪れる修学旅行のバスまたバスなのである。
           ☆       ☆       ☆
 昭和二十八年、K先生から、学会が京都であるから、ついでに奈良に行くと連絡があった。
 先生は、卒業の年の担任である。中宮寺のご本尊を拝観したいとおっしゃったのでお供した。今のような本堂でなく、やや暗い、奥まった本堂に、年輩の尼僧さんが案内して下さった。私たち以外に、拝観者の姿は無い。
 「この観音さまに、おあいしたかったのだ」
と、先生は感激し、とてもお喜びであった。
 次いで、法隆寺に向かう。
 秋の日ざしが、築地を照らしていた。その前に丸太が十本ほど置かれている。どこを修復されるのだろうかと、そんな思いが頭をよぎった。その丸太に腰を下ろした老人が、土いじりしている孫を眺めている。
 法隆寺の広い境内には、私たち四人以外に犬の子一匹もいなかった。
 現代のように拝観料もいらない昔は、修理など一体どうしていたのだろうか。
 今日、お茶事のお手伝いに来た興福院の、長闇堂の天井に、何枚も張ってある古い和紙に目が止まった。元禄五年壬申五月吉日、東大寺龍松院勧進沙門公慶上人と印刷されてある。当時の南都大仏殿勧進帳であった。それをはがして、一枚ずつはってある。
 二文さち、四文せん、三文ふき…。寄進者と金額が墨で書きこまれていた。
 上人のお姉さまが、この興福院四世なので長闇堂復興の際に、この勧進帳を東大寺からいただかれたとのこと。将軍綱吉公から千両、生母桂昌院の方から五百両、石高に応じて諸大名からの奉加金もあった。そのなかに、信仰のために、自分たちの生活費をさき、精いっぱい寄進したことと思う。
 東大寺に限らず、当時の庶民の善意と、信仰が、私たちの目に見えぬところで、今日の奈良を支えているのではないだろうか。感慨あらたに、私はあの天井に張られた勧進帳の名前を、もう一度思い出している。

昭和62年(1987年)9月28日 月曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第90回)

随筆集「遠雷」第44編

掲載年リストへ   題名リストへ  前編へ  次編へ

©2008 Haruta Kazuko All Rights Reserved.