わたしのカラオケ考
治多 一子
先日、近くまで行ったので、Mの店に寄った。久しぶりに会ったこととて、話は尽きない。と、突然彼女は
「Yさん、最近カラオケに燃えてるらしいよ」
「フーン」
私は全然関心がない。女学校の音楽会には、代表にMは選ばれるが、私はアウトである。
三部合唱ともなれば、ソプラノ、メゾソプラノ、アルトと何でもござれと、私は言いたいのだが。実は、隣近所の音声につられて、簡単にどこのパートにでも、つい移ってしまう。口の悪いNは
「アンタ、もう、ホンマになんぎなや、邪魔になるから、口だけ開けときよ」
「金魚になれというの」
といった具合の私である。だからカラオケとは、歌好きが行って、壮絶なマイク争奪戦があり、声自慢が、やたらと自分の美声をひけらかすところぐらいにしか認識していない。
その夜、私は知人のくし焼きの店で、I氏に初めてお会いした。いろいろお話をうかがったあと、そこを辞そうとして、ふと思い出し
「かねて、歌がお上手とうかがっています」
「何か歌いましょう。何が良いですか」
なんといっても、口パクパクの金魚族の私のこと、文部省唱歌か、女学校で習ったのしか知らない。
「どんな歌でもいいです」
「では、わたしが中学生のとき、お別れ会で歌ったのを歌いましょう」
それは長崎の鐘≠ナあった。すごい美声である。しかし世間には、声の良い人はたくさんいるから、声だけのことなら、さして驚くに当たらない。だが、私はその声に、少年I君を見たのである。氏は単に歌詞を歌っておられたのではなかった。過ぎし日の、ひたむきにこの歌を愛した少年の心の詩を、そして遠きふるさと長崎への望郷の詩であった。
氏の心には、マスターや、私の存在は一瞬無かったのではなかろうか。目は遠くを見、歌声は氏の来し方を語りかけていたのではないだろうか。何故か、私の胸に、熱いものがこみあげてきた。歌が、こんなにも他人の心をゆさぶるものだとは、これまで思ってもみなかった。そして歌える人をうらやましいと思う。
帰りみち、ふと見上げた西方の空に輝く星を見た。そして、Yに会ったら、今宵のささやかな、この発見をぜひ言おうと思った。
「あんた、カラオケで歌えて幸せよ」
昭和63年(1988年)4月16日 土曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第95回)
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