遠雷(第107編)

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来迎図

治多 一子

 請われない限り、作品を見せようとしない友Mが、なぜか告別式の朝、洋服ダンスの後ろから、一つの作品を取り出して来た。
 「これが私の絵を始めた原点なの。どうしても、これを描かずにおれなかった」
 百号の大作である。空襲で身にまとう衣服も焼かれた、三人の乙女の、半裸の後ろ姿であった。一人は立ち、一人は中腰、残りは座っている。昭和二十年五月二十五日の絵である。Mも妹さんもやけどを負い、母上は焼死、父上は行方不明になられた空襲の日であった。
 今、私が立っている音羽の護国寺は焼け残った。が、まわりは焼け野原だった。彼女の家も、私のいた寄宿舎も、すっかり焼けた。ぼう然とたたずんだ私に、この護国寺の屋根の緑青が目にしみた。
 四十四年たった今、私は、鷹司和子様のお葬式に参列している。寮の食堂から、朝夕眺めたこの寺院を、こうした悲しいことで訪れようとは、思いもよらぬことだった。
 先年、奈良にお見えの折、ご連絡をいただき、日吉館でお会いした。とてもお健やかであった。何かお目におかけしたいと思い、考えた末、「あまちゃづる」をのりの缶に入れて、お贈りした。多武峰まで出かけて採集した、私の労力と時間をかけた品である。
 和子様は、すぐお手に持たれ、深くお辞儀をされ、全身で、私の心を受け取って下さった。人の真心をかくも素直に受けて下さる方が、この世におられたとは…。さめやらぬ感動がいつまでも続いた。
 先に逝かれたご夫君平通様にも、懐かしい思い出がある。昭和二十年代、市立奈良女学校の学年遠足で、堺の水族館へ行くことになり、平通様にこの旨申しあげたら、
 「叔父があそこにいますから、紹介しますよ」
と、ご親切にも、すぐ名刺に紹介文を書いて下さった。叔父様が水族館長をしておられたのである。
 あるとき、田原村立青年学校の校長さんが
 「校歌はあるので、だれかに作曲してほしい」
と、私の弟に依頼された。平通様は、音楽にも大層ご造けいが深い。弟がお願いしたところ、すぐお聞き届けいただけた。そうして、その歌の指導のために、田原村まで歩いて行って下さった。今と違いバスのない不便な時代である。
 朝廷史の中で、公卿のトップにあって、政治を司(つかさど)っていた、鷹司家の直系の若様である。それなのに、少しも威張ったところがなく、さわやかで、誠実なお人柄であった。
 お二方とも、素直に人を信じ、心温かいお方であった。告別式が終わり、霊柩車が視界から消えるまで、お見送りしていた。
 突然、私の頭にMの絵が浮かんだ。「絶望と希望」と題したあの絵が。もう再び、お目にかかれない。絵の中の左上に、仄(ほの)かな明るさの日輪、光を受けて輝く雲が、希望を象徴している。それは、興福院さんで見た廿五菩薩来迎図をほうふつとさせたのだった。
 美しいお心の、あのお二方が、西方浄土できっと、幸せにお暮らし下さると信じた私である。

平成元年(1989年)6月21日 水曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第107回)

随筆集「遠雷」第50編

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