遠雷(第108編)

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リリーとトラ

治多 一子

 久しぶりに、尾を振って請求する犬のリリーちゃんに、大好物の海苔(のり)をやろうと思った。
 かがんで一枚、二枚とやったとき、どこからか、猫のトラちゃんが出て来た。そして、私の腕を右の前足で叩(たた)き始めた。
 「これ一体、どういうことですの」
 そばにおられた尼僧さんに尋ねた。
 「トラちゃんも、ほしがってますのよ」
 なぜか、このお寺さんの犬も猫も海苔が大好きなのである。しかし、私はいまだかつで、トラちゃんにやったことがない。しかも、リリーちゃんの食事中である。
 この瞬間、私はSさんの手のホータイを思い出した。彼女は犬の食べている食器が遠くに行ったので、口元の近くに置いてやろうとして、ひどく咬(か)みつかれたでのある。
 またMのことも思い出した。以前彼女が
 「五郎ちゃんて、ホンマにエッチな犬やで」
 「ええ? どうして」
 五郎ちゃんって、Mの隣の犬である。彼女にはよくなついていた。
 「この間、犬小屋から出るなり、淑女のお尻(しり)を咬んで、サッサと行ってしまったのよ」
 「おあいそで、咬んだのでしょう」
 犬は痛くないように加減して、ソッと咬むと聞いていたから。
 「何言うてんの。思いきり咬みよったで」
 犬好きのYに後日聞くと、どんなに可愛(かわい)がっていても、突然、ある瞬間、野性に戻ることがあると教えてくれた。
 この二つの事を思い出した。トラちゃんは、何度もねばっこく右腕を叩くし、リリーちゃんには、まだ何時ものようにやっていない。
 猫は執念深いと聞く。食べている最中の犬は野性に戻るし、どうしたらよいのか。食い物の恨みは恐ろしい。江戸の敵は長崎で≠ニもなりかねない。
 私は、エエイままよと、リリーちゃんの分をトラちゃんにやってしまった。私が咬まれるか、トラちゃんか。いずれにしても血を見ずにはいられまい。私は覚悟をきめた。
 だが、現実は、変わらなかった。犬は猫が小さな口でごきげんさんで食べているのを、じっと見ている。私は、拍子ぬけしたような、そのくせ、ホッとしたような奇妙な気持ちを感じていた。
 リリーを見た。幼い弟妹が、喜んでおやつを食べるのを、ほほえましく眺めている兄姉のように見えた。目の輝きは人間のそれにさえ見え、心温まる思いがした。
 あとでお聞きすると、猫は犬の寝床を占領するときもある。だが、吠(ほ)えも咬みもしないとのこと。
 血の雨がふるどころか。リリーちゃんみたいな気持ちだったら、恐ろしい醜い人間の諍(いさか)いもなくなるだろうにと、しみじみ思った。
 その夕方、町でMに出会った。
 「エッチの五郎ちゃんどうしてるの」
 「この間、死んだわ」
 ポツンと一言。

平成元年(1989年)8月2日 水曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第108回)

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