遠雷(第111編)

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ボランティアでない

治多 一子

 山陰の旅の土産とて、Yさんから長芋を貰(もら)った。私も鳥取の砂丘に行ったことがある。
 「山陰の旅はいいでしょう」
というと
 「お湯はいいし、お料理もおいしかったしネ、でも…」
 「何かあったの」
 「一人が、お姑(しゅうとめ)さんの悪口いいどおしで、本当に不愉快だったわ」
 これを聞き、先日のことを思い出した。喫茶店で、お茶を飲んでいる時、その場の、一初老婦人が、
 「私がネ、今年富士山へ行って来たとき、長男の嫁が、元気でよろしいネ≠ニ、そりゃ憎々しげに言ったのよ」
 また一人が
 「私は息子にお母さんは元気すぎて、かわいくない≠ニ言われたの。きっと嫁も言っているのよ」
 こんな思いをして暮らすのも、人間の業(ごう)なのだろうか。
 私は今、一枚の葉書(はがき)を手にしている。先日届いた、Nちゃんからの転宅の知らせである。同じ県内とは言え、遠く離れてしまった。始終会っていたわけでもないが、近くに居ることが心の支えになっていたのに。
 私のお茶の師匠は
 「あんたは、割と、しょうもない人間やけど、友達には恵まれているわネ」
と、時折、おっしゃる。Nちゃんが、その一人である。
 彼女は、本当によく人の世話をする。あるときも、近くのお寺さんに、骨身惜しまず奉仕するので、感心し
 「あんた、ボランティアでえらいわネ」
 彼女即座に
 「ボランティアと違う」
と言う。
 「お金も貰わず、ひたすら奉仕してるのにボランティアと違うの」
 「違う。もっと切実なものや」
と答えた。彼女にとっては、すべて、親兄弟に対するのと同じ心なのだろう。
 考えれば、お世話できて幸せとか、喜んでもらえて嬉(うれ)しいとか思っても、所詮(しょせん)は他人ごとだ。いわゆるボランティアといい、奉仕といい、無私の行為など、なかなかできるものでない。
 Nちゃんのお姑さんは、浄土真宗の熱心な信者さんである。極楽浄土へ行くことを祈念しておられたらしい。寝たきりになったとき、彼女に向かって
 「あんたも、間違いなく極楽へ行けるから、わたしが、先に行って、道に迷わんように、手振ってあげるからネ」
 Nちゃんが、こんなにお姑さんに思われるというのも、彼女の人柄のせいであろう。
 「ボランティアでない。もっと切実なものや」
と言った。そんな心で彼女は、この世に処してきたのだと思う。まもなく、お姑さんは浄土へと旅立たれた。私は、このお姑さんの言葉を人に語るときは、何時(いつ)も、熱い涙が頬(ほお)を伝う。
 まさに、姑さまざま、嫁さまざまである。

平成元年(1989年)12月13日 水曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第111回)

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