大事小事
治多 一子
S自動車会社のサービス部に、点検料を支払いに行った時のことである。ドアの異常音を見てもらいたかったので、先に電話で話しておいた。U整備士は、私の用件は先刻承知のはずである。が、生憎(あいにく)外の車の傍らで先客と話しあっていた。私は受付嬢の案内で椅子(いす)に坐(すわ)って待っていた。
間もなく用件が終わったらしく、二人は私のいる事務室に入って来た。私の耳に二人の話が聞こえてくる。雑談である。私は急いでいたので、椅子から立ち上がり、二人のそばで待ったが、雑談はいつ果てるともない。私は、お寺さんへ用事があって、イライラした。早くしないと、門限に間に合わないから。
ついにしびれを切らした私は
「時間がないから帰ります」
と言って、そこを出た。彼の話相手も、私も、客である。前もって連絡していたのにと思うと、いささか腹が立って来た。しようもない話に…。あの整備士は、先客の機嫌を損ねないように、愛想笑いをしているようにさえ見えた。
ふと、何年も前のことを思い出した。当時私は、あるクラスの副担任をしていた。もう一人副担任がいた。ある晩遅く、その副担任から電話がかかって来て、
「今日のショート・ホームルームに行ってくれましたか」
と彼。
「ああ、忘れていて済みません」
と私。その人が急に出張することになり、代わりを頼まれていたのを、私は忘れてしまい、気づいて教室へ行った時には、担任も、もう一人の副担任も出張することを知っている生徒は、既に帰ってしまっていた。
私は電話口で平謝りに、あやまった。翌日、その先生は、またしても、そのことを言い出した。挙句に、
「このことは校長先生に言わずに、わたしのところで留(とど)めておいてあげる」
と言われた。
「私は自分のしたことには責任を持ちますから、どうぞ言って下さい。私からも校長先生に言いに行きます」
と言った。
「いやいや、そこまでしなくても…」
で、その件は終わった。
もし、その時『先生の胸でとめていて下さい』と言っていたなら、私はずっと、その先生に負い目を感じ続けなければならなかっただろう。あるいは弱みを握られたという意識を持つことになったかもしれない。
今、整備士の態度が、あの先客に整備上のことか何かで、負い目、あるいは弱みを握られているのではなかろうか。と、思うのは、うがちすぎであろうか。友人に語ると、
「あんた、その人に、なめられてんねで」
と軽くいなされた。
しかし、世の中には、ちょっとした気配りや、思い切りの悪さのために、ずるずると深みに落ちて行ったり、取り返しのつかぬことになる例は、ままあることである。
この世、小事、大事の境い目はない。
平成2年(1990年)6月10日 日曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第114回)
©2008 Haruta Kazuko All Rights Reserved.