お寺さまの小鳥たち
治多 一子
一羽のアオジが枯れ葉、落ち葉の敷き乱れた庭で、セッセセッセと餌(えさ)をついばんでいる。私の足音で、枝から枝へと渡り飛び去った。野鳥は、あのように自分で餌を探し求めているのだなあと思いながら、K寺院へ行った。私の顔を見るなり、T尼さまは
「ちいちゃんたち、みんな殺されました…」
と言われた。私は呆然としてしまった。昨日までチィチィと鳴いていた小鳥たちが…。
「一体、どうして殺されたのですの」
K寺院は一昨年から客殿の大修理が行われていて、先日から居間の移動の準備が始まっていた。その折、縁下の網に隙間が出来、以前から出没していたタヌキ一族か、イタチかが床下からそこを通り、ちいちゃんたちを襲ったらしい。
文鳥の死体だけが鳥籠に残り、他の籠には羽根二、三枚のみが残っていたとのこと。
その鳥たちは、迷い込んで帰れなくなってしまったのや、けがをして動けなかったもの、ヒナのときに親鳥に見放されたものなどで、いずれも、そのまま見過ごせば、野犬などに殺されるかもしれないのだった。
「ちいちい」と鳴いて、遊んでほしがったヒヨ。
バタバタと羽根を動かして喜んでいた鳩。
E老尼さまになついていた文鳥。
彼らは一夜にして殺され、挙句に、運び去られてしまった。
尼僧さまは
「餌がとれないだろう。イタチなどに殺されたら不憫(ふびん)だと思って、ずっと飼っていたのが、こんなことになって」
「仮令(たとえ)、天敵にやられることになっても、元気になったら、放してやって、自然の中で野鳥として過ごした方が幸せだったのでは…」
と、しみじみおっしゃった。
ずっと以前、野鳥の会の人から
「かわいそうと思っても、自然の中に放ってやるのが一番いいことですよ」
と聞いたことを思い出した。過保護がかえって不幸せにしてしまった。
人間の場合も、そうしたことが、ままあるのではないだろうか。
「あんたは、チョコマカとかまい過ぎやで。その人のためにならんで。ええ加減にしとき」
と友達から苦言を呈されることがよくある。
お寺さまが、小鳥たちによかれと思ってなされたことと、私は同じようなことをしているのではなかったか。
家に帰ると、いつも来るキジ鳩だろうか、つくばいで、また水浴びしたらしく、水の飛沫が庭石を濡らしていた。
平成3年(1991年)4月7日 日曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第120回)
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