ある先輩の後ろ姿
治多 一子
先日、自転車で走っていると、前方を白髪の、背腰の随分曲がった女の人が歩いている。首筋がなんとなく女学校の先輩に似ている。しかし彼女なら、あんなに年寄りっぽくないはずだ。世の中には似た人もいるもんだなあと思い、気のせくまま、その横を通り過ぎた。
しばらく行き、何気なく、ふと振り向いた私の目に映ったのは、まさしく彼女の顔であった。
「エエッ、Yさんだったのか」
瞬間、私はずっと以前の、体育の若い教員の言葉を思い出した。バレーの顧問のとき、私は生徒と一緒に練習した。幸いその部が県でのベスト4に入れたと、十五、六年前のことを話した。すると彼は、木で鼻をくくったように
「昔のこと言ったってしょうがない」
と。白けた空気が部屋に流れた。
Yさんも昔のことを語ったと、言っているわけではないが…。
一年上の彼女は女学生時代、バスケットの選手であった。そのジャンプ力、巧妙なフットワーク、ロングシュートの素晴らしさ、もうすっかり魅せられた。
老いさらばえた風にさえ感じられる目の前の姿に、往年の面影は全くなかった。あの青年教師の言葉は、このことを意味しているのかなあと思った。過去に何をしたかということよりも、現在何をしているかが問題だと言ったのだ。
クラス会に行った帰りの新幹線の車中で、私はまた再び彼の言葉を思い出し、考え込んでいた。今はもう日本の領土ではないが、北は樺太、南は台湾からと全国からやって来て机を並べた級友である。卒業後、各地で教師をしたが、もう、みんな辞めていた。
その後、一人は今春、銀座で絵の個展をやり、記帳者が五百人以上もあった。また他の友は、東京の一流の画廊で数回も絵の個展をしていた。
あるものは実験物理の研究をしている。また登校拒否の子供たちの指導する友。英語の同時通訳の資格を得たもの。本格的に書道に打ちこんでいる級友等々…。
戦中、私たち数学科生のみが、最後まで校舎に居残り、海軍水路部の天測作りをした。その間、寮生活が続いた。だが、東京空襲の日、寮の終焉(しゅうえん)を見たのである。
そのとき、骨折したり、後日入院するほどの打撲をうけたり、大火傷(やけど)をしたりした。が、生命あった級友は、老いさらばえることなく、今を生きている。
それにつけても、カッコよかったあの先輩の、悲哀さえ感じる後姿が、まだ脳裡(のうり)から去らないのがたまらなく寂しい。
平成3年(1991年)7月21日 日曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第123回)
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