ヒューズが切れて
治多 一子
遠出の明日に備えてガソリンを入れに行き、急いで家の前まで帰って来た。徐行して止まろうとし、左側の矢はずススキにふれた。その途端、車の中は真っ暗になった。ついているのはヘッドライトのみだ。
いまだかつて、こんなことは一度もなかった。夜の九時になっている。途方にくれた私は、いつも給油している紀寺のガソリンスタンドに、自転車で助けを求めに行った。
親切な店長代理が、たまたま勤務日で、ほっとした。店のしまるのを待って、来てもらう。
「ヒューズが切れてますよ」
「ヘエー、そんなのあるの」
時計、ラジオは停止、方向指示機のライトもつかず全く闇(やみ)と沈黙である。彼は運転席に座って、右前下を調べさわっていた。しばらくして車中が明るくなった。
「ススキにさわったからかしら」
「そんなの関係ないですよ」
私はススキにさわったせいで、どこかの線が切れたのかなと思ったのである。
十何年も毎日乗っているのに、こんなことは初めてである。そして、だれからもこんな話を聞いたこともない。
彼がヒューズを取り替えてくれなかったら、約束の明日の桜井行きはオジャンになるところだった。言い出しベエの私が行かないとなると、私の信用はガタ落ちである。
たった一つのヒューズが切れただけで、運転が不能になる。もし家の前でなく、途中だったら一体どうなったことやら。全くゾッとする。
かつて
「今どき変わっている。あの君(くん)ボクは計算器を信用しない。どこで狂っているやら分かったものではない≠ニ言いながら、セッセとソロバン珠をはじいているよ」
と同僚の理科の先生の噂(うわさ)を聞いた。私も
「エエ、今どき、そんなこと言っている人あるの」
と驚いたものだ。
だが、私はこの体験で、ホトホト機械などを信じきっていることの恐ろしさを知らされた。
今や機械への盲目的な過信が、社会のすみずみまで支配している。
コンピューターを信じて、間違い切符を出したり、列車のブレーキが効かなくなったり、飛行機の大惨事につながる故障とか、思えば、危険と背中合わせの文明社会である。
私の車は、今なお、ラジオはいずれのチャンネルもガアガアアヒルのような声を出すし、時計は十二時で点滅をつづけている。
平成3年(1991年)9月1日 日曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第124回)
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