落慶間近
治多 一子
先日、佐保路にある興福院さんにお参りした。この間まで建っていた県文化財出張所の事務所も、作業場もなくなっていた。全く消えてしまった、という感じである。あとは、まるで庭園であった。二年間も建物のもとで、何人もの人が働いておられたということは、私の見た夢の中の出来事ではなかったか、とさえ思った。
えてして、建築作業の終わったあとには、ジュースの缶や、古い針金や、たばこの吸い殻、木屑、古いバケツなどの何かが捨てられてあったり、忘れられたりしているものである。だが、あの人たちが仕事をしておられた、ということを証明するものは、何一つ落ちてなかった。
木片や、かんな屑などを燃やした後の灰さえも残っていなかった。何と始末のいいことか。さすが、文化財を守る仕事をされる人たちだと、心打たれた。
あの人たちが、二年間もの長い間、たゆまず働いておられたことのあかしは、立派に修復された客殿の、優美な桧皮葺の屋根となって残されていた。それが澄んだ青空のもとに、くっきりと浮かび上がって見えた。
特にお話したわけでもない。ただ会釈を交わすだけであったけれど、文化財を守るために、ひたすら働いておられた人々。丸い顔、長い顔、四角い顔々の誠実そうな人たち。もうその人たちとあいさつを交わす機会のなくなったことに、一抹の寂しさを覚える。
台風一九号による厳島神社の大被害が新聞に出ていた。流失した国宝の左楽房。台風の恐ろしさを、まざまざと見せつけられた。
幸い奈良は、地形のせいで、これまで台風の被害も、それほど酷く受けずに済んだ。古文化財が、長い年月無事に残ったのは、そのためだと言われている。
それだけに老朽化もひどく、あの人たちの仕事は尽きることはないだろう。今どこで働いておられることか。元気で立派なお仕事を、後の世のために残していただきたいと願うのは、決して私一人だけではないだろう。
興福院さんの御住職は、
「修理の費用を国と県から出して頂いたありがたさ。文化財の方々に骨身惜しまず働いていただいたことを、いつまでも忘れずに寺内代々伝えて行きたい」
とおっしゃった。さらにまた、
「『受けた恨みは水に流せ。受けた恩義は石に刻め』だからネ」
と、さわやかにほほえまれた。友にこれを言うと、
「あんたは逆やネ、ちょっとしたことでも、いつまでも執念深く怒ってるもんネ」
興福院さんの落慶の日は間近である。ヒョッとしたら、懐かしいあの人たちに会えるかも…。秋風の中で揺れる門前のススキに、そう思った。
平成3年(1991年)10月13日 日曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第125回)
随筆集「遠雷」第52編
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