薬草研究会
治多 一子
いささか冷えるなあと思ったら、あき子さんは手首に毛糸で編んだサポーターを二重に巻きつけていた。私の視線に気づいて、
「こんな日は、とても痛むのよ」
と言った。あき子さんは、真夏でも、よく手首に何かを巻きつけている。手に力が入らず、手首が猛烈に痛むのだそうだ。
「お医者さんがネ、昭和一桁(けた)の後半に生まれた人は、ポックリ死ぬ人が多いのですって」
そう言われてみれば、かつての同僚から、その年代の人が何人も村で亡くなったと聞いたような気がする。さらに彼女は
「そしてネ、私たち昭和の十年代の前半に生まれたものに、このような症状を訴えて来る人が多いのですって」
戦争で、成長する時期に、栄養失調になっていた世代であったということだ。
戦中、全寮制度だった私たちの寮が焼け、群馬県富士見村に疎開した。そして、県の種畜場での農作業をした。ちょうどそのころが、あき子さんの幼年時代だったのだ。
作業中、虫にさされても、つける薬もないときだった。ビタミンの不足で、みんな手足の傷口が化膿していた。
そのとき、物知りで通っている岡山県出身の友が、
「こんなとき、十薬(じゅうやく)を張るといいのよ」
と言った。私たちは、化膿した手足のあちこちに、葉をもんで張ったものだ。効き目があったのか、ひどいことにもならず、助かった。十薬さまさまであった。
級会で久しぶりに会った九州出身の友は、首に絹のマフラーを巻いている。そんなの付ける時期でもないというのに、
「薬害で、こんなになったから、見苦しいので、マフラー付けているのよ」
見ると首が、まるでただれたようになっている。ゾッとしてしまった。
あき子さんの話。動員での思い出。友人の薬害など、いろいろ考え、話しているうちに、仲間で「薬草研究会」をしようとなった。
その直後、私は夜中に突然、手が猛烈に痛くなり、目が覚めた。まわりを見ると、十数センチメートルもある百足(むかで)が、物陰に消えるところだった。みるみる指がふくれて来た。ズキンズキンと凄く痛い。
そのとき、会員の友からもらった、あまちゃづるの生の葉をもみつけた。痛みが消え、翌日は刺された傷口さえも分からないぐらいに完治していた。だれが最初に、あまちゃづるが百足に効くと見つけたのか。
先人の知恵は、ありがたいものだと思った。ともかく、薬草のありがたさを知り、みんなで薬草研究会を作ったのは、正解だった。
今では、あき子さんも、九州の友も、研究会の有力メンバーである。
平成3年(1991年)12月1日 日曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第126回)
随筆集「遠雷」第53編
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