遠雷(第128編)

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橋の上の侍従長

治多 一子

 初めて通る道である。
 「あの街道は車が少ないわよ」
と、二、三日前教えてもらった。なるほど、すいている。
 左側のバス停の標識が、ふと目に入った。その駅名は、ずうっと前に耳にしたようである。しばらくして、彼女の住んでいたところだと思い出した。
 彼女と私は共通の知人の家で、ある夏の日の午後、西瓜(すいか)の食べっこし、以来幾度か会った。後日、奈良市内のさる会で、数人と一緒の彼女と出会った。
 私は、挨拶(あいさつ)しようと笑顔で近づいた。ところが、彼女は完全に私を無視してしまった。そして私と一緒にいた知名士夫人に、満面に笑みを浮かべて近づき、挨拶し出したのである。
 私は笑顔の向ける先がない。かがんで、靴の紐(ひも)でも結ぼうと思った。が、生憎はいて来たのは紐のない靴だ。あの親しく、おつきあいしていた事実は、この人にとって、一体何だったのだろう。
 友人に言うと、すかさず答えた。
 「知名士夫人とやらと天秤(てんびん)にかけ、こんな人間と物言うてられんと、馬鹿(ばか)にしてんで」
 あんな情けない、バツの悪い思いをしたことはない。それから、ゆくりなくも思い出したのは、入江侍従長のことであった。
 当時、母校で高校教員を対象とする数学の講習会があった。受講のため数日、東京の友人宅で泊まった。その折、奥方とはかねて、お親しかった母の代理で、お邸へ伺(うかが)った。
 奥方にいろいろお話をお聞きし、またお話し申し上げ、そろそろお暇(いとま)させていただこうと思ったやさき、侍従長のご帰宅である。
 奥方に辞意を申し上げると、和服に召し替えられた侍従長が、奥方のお言葉で、私を送って下さることになった。
 当時のお邸は、皇居内にあった。板塀で隣接している呉竹寮(内親王さまのお住居)、吹上御苑、馬場を右に左に見て歩いた。その間、お優しい口調でお話し下さった。
 ご門を出ると、申し合わせたように都電が来た。すぐ、それに乗り込んだ。そして何気なく、今渡って来たお壕の橋を見た。
 侍従長は、その橋の上で、じっとお立ちであった。そして私の乗っていた都電が視界から消えるまで、お見送り下さった。
 帰って友に報告すると、
 「凄(すご)いわネ、侍従長に送って戴(いただ)けたなんて」
と喜んでくれた。
 ややあって、その友は、
 「本当にえらい人って、いばらないのね」
とポツンとつぶやいた。
 人のたった一つの行為といえども、その人となりを物語るのに十分である。私の笑いを封じた彼女は、次の選挙には落選の憂き目をみたと、風の便りに聞いた。

平成4年(1992年)3月8日 日曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第128回)

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