遠雷(第129編)

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生きている茶碗

治多 一子

 R子先生は茶道部の顧問である。自身、有楽流をたしなんでいたとのこと。その場にいたものは、学生時代に官休庵を習ったとか、表流をやっているとか、かく言う私も、長い年月裏流の先生のところに籍がある。が、いまだに入門小習の域を出ず、破門寸前である。こんな話から、だれ言うともなく
 「お昼休みにでも、お薄(うす)いただかない?」
 「健康にいいし、たまには優雅になるのもネ」
ということで、話は決まった。クラブの道具は借りるわけにもいかなかいから、持ち寄ることになった。私は先日のことを思い出した。
 興福院さまで、お抹茶をいただいたとき、ご住職が、お茶碗(わん)をお手にとられ、
 「こんなに、ヒビが入っているから、これはお客さまに使えないの」
とおっしゃった。
 「大分(だいぶ)ひどいですね」
と私。
 「お茶ではネ、名だたるお茶碗は別として、ヒビの入っているのは使えないのよ」
と教えて下さった。そのお茶碗が頭に浮かんだ。
 「割れてもいいお茶碗いただいてくるから」
 翌日、それぞれ道具を持ち寄った。
 「お点前は、お世辞にも人並みとは言えないけれど、お服加減はいいわネ」
と、お師匠さまにも言われている私は、この日も調子に乗って点(た)てた。特にR子先生には念入りに点てた。さすが、おいしいわ≠ニ言ってもらおうという単純な下心で。
 だが、その言葉は聞かれなかった。彼女は飲み切ったお茶碗を回したり、裏を見たり、しげしげと見入っていた。そして一言、
 「このお茶碗」…しばらく沈黙が続いた。横からよく見るとライトブルーで、何か書いてある。
 「この俳句と銘、私の習っていた先生のよ」
 「ヘエー」
 「なんとまあ」
 グループの面々は驚いた。
 「私が学生のとき、京都まで習いに行った俳句の先生のだわ。三十年前のことよ」
 『角までも白鹿であるめでたさよ 比古』
と書かれてある。この比古先生は高浜虚子のお弟子さんとのこと。私はご住職からいただいたお茶碗をR子先生に進呈した。
 後日お聞きしたことだが、興福院さまの信徒の遺族が、父の遺品ですからお稽古(けいこ)用にと寄進されたお茶碗だった。ともに俳人だった二人には交友関係があったのだろう。
 押し入れで日の目も見られなくなる運命だったのに、三十年もの長い年月を経て今、愛(まな)弟子の手に渡ったのである。お茶碗は生きている。
 心をこめた作品には、作者の生命がこめられているのではなかろうか。

平成4年(1992年)3月29日 日曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第129回)

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