残った釣り鐘
治多 一子
興福院さんの門前で草を引いている人と、いつとはなしになじみになった。その婦人−松村さんは、腰の骨を折って長い間病院に入っていたが、退院してから散歩をかねて近くのお寺さんと、お地蔵さんへお詣(まい)りしておられる。お詣りしたついでに門前の草をチョイチョイ引いているとのこと。
今朝久しぶりに会った。
「今日は、遅くなってな」
と言いながら、松村さんは左手の時計をみた。
「アレー、その時計、若者むきの良い時計ね」
「これ息子が買ってくれたの。ネジまかんでいいから便利や。昔の時計は、いちいちネジまいたもんな。金側のやったけど、戦争中はそれ供出(きょうしゅつ)したなあ」
そうだった。金はもとより、鉄製品の火鉢や鉄瓶なども弾丸になるからと、供出したものだった。
その日、以前から約束していた友人をお寺さんへ案内した。渡り廊下を通って、客殿へ行く途中、釣鐘堂が見えた。
案内して下さった尼僧さまが
「この釣り鐘は、徳川家治が寄進したものです。当時の名人が造ったもので、全部で六個あったそうです。そのうち四個は既に焼失し、二個だけが残っているとのことで、その一つがこれですのよ」
「戦争中に、釣り鐘は供出しなければならなかったのでしょう」
「ええ、そうでした。二個のうちの一つがここにあり、もう一つは京都の仏光寺にあったのです。昭和十九年、その門主の方が自坊の釣り鐘を供出しないでよい手続きをするから、あなたの鐘も一緒に手続きしてあげる≠ニ言って手続きをして下さったので残ったのです」
敗戦の色濃くなったころは、供出されたものでも御用には立てることが出来ず、鉄のスクラップとして残されていたと、友人から聞いた。他人のことなど、かまっておられない時代に、しかも他宗旨の仏光寺の御門主の親切な行為がなかったら、この釣り鐘の運命はどうなっていただろう。
貴重な文化財が残るのも、消失するのも、心ある人の行為の有無が左右することであろう。
ある時、このお寺の信徒さんが
「ここの鐘の音色は、とてもいいから、除夜の鐘は家中で聞きに来ます」
と言われた。
この興福院さんで下宿して、除夜の鐘つきのお手伝いを申し出た奈良女子大の学生は、卒業後、山田無文老師のお導師で出家し、東京にいる。彼の地で、この釣り鐘の美しい音色を思い出していることだろう。
平成4年(1992年)10月25日 日曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第134回)
随筆集「遠雷」第54編
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