野球少年
治多 一子
向こうから生徒の一群が走って来た。テストが終わり、クラブの練習が始まったのである。中に、HR代表の豊君がいた。いつも遠くから、私の姿を見てニッコリ笑ってサヨナラする登志男君もいる。
彼ら野球部員の走り去る姿を目で追いながら、加代ちゃんのことを思い出していた。明朗でハキハキしていて、いつもまわりを明るくする加代ちゃん。彼女の子供さんが野球の練習中に急死と、ごく最近になって聞いた。子供さんは甲子園を夢みる高校二年の野球少年だった。
「学校や、監督の先生に訴訟をおこしたらよいとか、交渉してあげるとか、いろいろ言う人があったらしいのよ」
と、さらに私に教えてくれた。
先日出会った加代ちゃんは、当時のことを
「御前様が『全然知らなかったの、いま善光寺に来ているのよ』とおっしゃって、長野からお電話下さったのです」
加代ちゃんの語る御前様とは、奈良の興福院のご住職で、長野の善光寺の副住職も兼ねておられる方である。
「その時、御前様が『加代ちゃん、あなたみたいにいい人でも、避けられない運命ってあるのね、諦めるより仕方ないわね』とおっしゃったの。私は他のだれの言うことも絶対聞かないけれど、小さい時からかわいがっていただいた御前様のお言葉は、本当に素直に聞けたの。そして諦めようと悟ったのです」
ややあって
「私にとって、真の高僧のお言葉だったわ」
彼女は、学校に対しても、監督の先生にも、訴訟はもとより、文句らしいことも何一つ言わなかったのである。
急逝(せい)した長男正男君のお墓は奈良市郊外にある。監督の先生は、以来ずっと毎月の命日に一回も欠かされることなく墓参される。少年の好きだったジュースと、おかきを墓前に供えて冥(めい)福を祈られるということである。そして、それが七年間ずっと続いているのである。正男君が生きていたら、成人になる月から、ビールがジュースに代わって墓前に供えられてあるという。
加代ちゃんは
「主人は、ビールのおさがりを頂いて、あの子と一緒に飲んでいるのです」
と言った。私はとめどもなく涙があふれてきた。
さらに彼女は
「あの子によって、いろんなこと教えられましたわ」
と、静かに語った。ふり向いて見た加代ちゃんの顔は、観音様のようであった。
目を転ずると、先刻走って行った生徒たちは既にグラウンドに戻り、打撃練習をしていた。
だれが打ったか、白球が青空の中、弧を描いて飛んで行った。
平成5年(1993年)3月21日 日曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第138回)
随筆集「遠雷」第81編
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