風 化
治多 一子
連休明けに会った法子さんは、顔見るや
「この連休は本当に忙しかったわ、苗代作りに出たし、法事もしたし」
と言った。
「どなたの?」
「主人の叔父(おじ)さんの五十回忌でしたの」
ご主人のお父さんと、その弟さんとは同じ年に出征され、終戦後、兄は無事復員、弟は戦死との通知があった。
お父さんは満州だったので助かられたが、弟さんの方は南方で、その隊は全滅したのだという。
ある時、その方のお母さんが、村の人から
「遺族年金が入っていいネ」
と言われたそうである。その時
「お金なんかいらない、あの子さえ生きていてくれたら…」
と泣いて怒られたとのこと。それを聞き私は隆さんの話を思い出した。
聞くところによると隆さんは、終戦後少尉で復員した特攻隊の生き残りの学徒兵だった。
彼の所属していた隊では、戦友が次から次へと出動、敵艦に飛行機もろとも体当たりして死んでいった。なぜか彼には出撃命令が下らず、遂に終戦の日が来たのである。後日、彼の知ったのは、父の知人某元帥から出動の命令の度に指示が働いたということであった。
隆さんは、ともにお国のために突っこもうと固い約束をした戦友に対し、本当に申し訳なく悩みつづけ、死をもって、お詑びしようとしたのである。彼のお母さんは、その決意を翻さすには、到底自分の力の及ばぬことを知り、隆さんが尊敬するT尼に電話された。
彼が割腹自殺をしようとしたその日、彼の部屋の畳には白い布が敷かれ、白木の三宝の上に自刃(じじん)のための短刀が置いてある。
T尼は
「あなたが一人死んだとしても、日本が急に戦勝国になれるわけでもないし、進駐軍が今さら引き揚げるわけでもない。それより日本再建のために云々…」
と宵の七時から翌朝四時ごろまで極力とめようと努力されたが、隆さんは決意を翻さなかった。
遂にT尼は…私には武士の血が流れている。これも何かの因縁。日本男子の最期を見とどけようと腹をきめた…
「じゃ、立派に割腹なさい。私が見とどけてあげる」
と、部屋の入り口の側に座り直し、真横から黙って隆さんを見つめた。暫(しばら)くして彼は
「死ぬなと止められると、よけい死なねばと思うが、死ねと言われた途端力が抜けた」
といい自決を思いとどまった。以後、戦友の分まで働き続けているという。
戦死された人の法要を営む身内の人たち、戦友の死を胸に秘め生きて働き続ける生還者の人たち。五十年という過ぎた日々は長くとも、戦のあとは決して風化しない。
平成5年(1993年)5月30日 日曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第140回)
随筆集「遠雷」第56編
©2008 Haruta Kazuko All Rights Reserved.