二つの石柱
治多 一子
法隆寺の松並木の参道を歩きながら、令子ちゃんが
「ご一緒だった先生で、もう何人も亡くなられたわね」
と話し出した。
「そうねえ」
と言いつつ、西大寺塔頭(たっちゅう)の友を訪ねた日のことを思い出した。
お寺の前の神社に、石柱が並んでいた。寄付した人たちの名前が刻んである。何気なく、それに目をやり、そして私は隣り合って並んだ二つの石柱を見た。かつての同僚の名が刻まれてあった。
二人は旧制中学時代からの友人だったという。石柱は、机を並べて座っている少年の姿を思わせた。二人とも、もうこの世におられない。生前、仲よくそろって寄付されたのだ。
一人は高校の校長さんになり、他方は父君の後を継ぎ立派な僧侶(そうりょ)となられた。
後者の先生の奥さんと、私は何十年来の親友である。二人で先生に英会話を習った。彼女も私も全然進歩せず、先生の心こめて入れて下さる玉露に、いつも
「これ、すごくおいしい」
と感動して、結局、お勉強は終わりという始末。しかし、先生はおこりもせず、丁寧に教えて下さった。が、遂に二人で英会話は「やんぺ」と相成ったのである。
当時、生徒のクラブとの関係もあり、職員の間で卓球や囲碁などが流行していた。
「数学教えていて、碁知らないと恥ずかしいで」
と何人かの先生に言われた。校長になった方の先生が、私の碁の師匠になって下さった。
初心者を教えるのは、だれしも嫌うのに、私は初歩も初歩、五目並べ≠オか知らない状態から指導してもらった。全校遠足の時も、
「昼食の休憩時間に教えてあげる」
と態々(わざわざ)、折りたたみの碁盤を持って来てまで指南して下さった。残念ながら、これも進歩なく、完全に脱落してしまった。
「あんたも碁的低能≠竄ネ」
と同僚たちに笑われたものだ。
石柱に刻まれた名前を見つ、往時の二人のことを偲(しの)んだ。
それぞれの行きつかれた最後の道は異なるけれど、私にとっては、どちらも心温かい同僚だった。
人の真心は、それをうけた人間の心の奥深く、いつまでも生きているものである。
平成5年(1993年)8月1日 日曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第142回)
随筆集「遠雷」第79編
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