遠雷(第143編)

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ホオジロの親子

治多 一子

 「そっちへ行っては駄目」
の制止の声も聞かばこそ、すっかり大きくなったお寺さんの犬は、綱を持っておられる尼僧さんを、凄い力で引っ張って行く。
 「五郎チャン、あんなに走り回ったら、散歩させるの大変ですね」
とお台所におられた方に言うと
 「Tさんは五郎の小犬の時、あんまり甘やかしたから、なめられたんです」
 お話によると、他の人の言うことはよくきくらしい。
 ゆくりなくも、こちらの御住職から伺ったお話を思い出した。何気なく窓ごしに外を眺められたとき、ホオジロの親とヒナが崖(がけ)のところにいたそうである。
 親鳥が巣立ちの日に備えて、ヒナに飛ぶことを教えている。親は口ばしに餌をくわえて、ヒナの前に一定の距離を置いて、先導して行った。崖の途中までしか飛べず、ころがり落ちてしまう。親鳥は、すぐさま戻る。だが、決してヒナの側へは寄らない。やはり一定の間隔を保って、相変わらず口には餌をくわえたままで、ヒナを導いて行く。子はヨチヨチついて行き、何度も何度も飛びかけては、下まで落ちる。その度に親は崖下まで飛び下りる。
 だが、口から餌を離さない。そして終始一定の間隔をおいて、わが子に挑戦させようとする。
 親鳥のあくなき指導と、それにこたえようとヒナの努力が、幾重もの失敗を重ねた末、やっと実を結び、崖を登り切ることに成功したのである。
 「口にくわえていた餌はすぐ、ヒナにやったのでしょうね」
とお伺いしたら、御住職は
 「いいえ、安全な場所に連れて行くまでやらなかったと思う」
とおっしゃった。そして、さらに
 「きびしい自然の中、自分で餌を探し求めねばならないことも、また教えたでしょうね」
とお話になった。
 ともすれば、過保護に育てがちなこの世に、手のひらに乗るほどの小さな鳥が、自力で生きるためにと、わが子を必死になって教え、子も懸命に従う健気(けなげ)な姿を想像し、思わず涙が流れた。
 「チョットじっとしてなさい」
の制止の言葉に耳をかさず、五郎チャンはわが道≠無茶苦茶(むちゃくちゃ)に走り、綱を持つ人をのけぞらせて、引っ張り回している。過保護のせいか。

平成5年(1993年)9月5日 日曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第143回)

随筆集「遠雷」第57編

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