遠雷(第147編)

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優しい金魚

治多 一子

 久しぶりに出会った康子さんは顔見るなり
 「お預かりしているお寺さんの金魚ネ」
と言い出した。過日、ご住職が
 「庫裡(くり)を修繕するので、金魚を置くところがなくなるから、康子さんに預かっていただけないかしら」
と仰言(おっしゃ)ったので、康子さんに頼んだ。早速ご主人とともに、丈夫なビニールの袋に入れて持って帰ってもらったのである。
 「何十年と金魚を扱っているけれど、あんなこと初めてよ」
と話し出したので、
 「エエ、何が」
と言い彼女の顔をじっと見た。
 「取りあえず家の金魚の水槽に入れたの、明日別の水槽に移したらいいと思って」
 「どうして、そのまま入れとけないの」
 「金魚のイジメというのはヒドイのよ。あとから入って来た金魚をみんなで、ヒレは食いちぎるし、体は突っつくし、時には殺されることもあるのよ」
 私は、あんなに美しく小さな魚が、そんなことするとは思いもしなかった。
 翌日、彼女は、どうなっているかと恐る恐る見に行ったら、何の異状もなかった。
 ところが、それどころか、大分時間が経って金魚を見に行ったお嫁さんが  「お姑(かあ)さん、エライことですよ、家の金魚がお寺さんの金魚に従って泳いでます」 と知らせたので、驚いて彼女が見に行くと、その通りだった。
 「色も形も同じなのに、どうして分かるの」
と聞くと、
 「お寺さんのは、オレンジ色がかかっているし、人間と同じで、姿、形がそれぞれ違う」
と教えてくれた。
 突然、他から来た金魚を、いじめないどころか、それについて泳いで行くなんて、康子さんの何十年もの金魚飼育の歴史に、かつて無かったという。
 それから何日も経って、
 「お寺さんの金魚で、一尾が、泳げなくて、いつも水槽の隅で仰向きで沈んでいるのよ」
と康子さんは言った。
 それを聞いて、
 「それは金魚のノイローゼでっせ」
という魚の餌(えさ)屋さんの言葉を思い出した。だが、彼女は浮き袋のバランスをくずしている≠ニ説明してくれた。
 それから
 「いつも、その金魚を守っているように、あの先頭を泳いだ金魚が、たびたび沈んでいる金魚の上に来てるのよ。きっと餌もやっているわ」
と言い、さらに彼女は
 「不思議なことに、小ぶりのお寺さんの金魚が、そのお伴(とも)して、そばでじっとしてるの」
と感じ入っていた。
 ご住職にお尋ねすると、
 「初めは、そんなことなかったけれど、いつの間にか見守るようになったのよ」
と仰言(おっしゃ)った。
 康子さんに告げると、
 「きっと、ご住職のお慈悲の心を、あの金魚は戴いたのネ」
と言った彼女の目に光るものがあった。

平成6年(1994年)3月7日 月曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第147回)

随筆集「遠雷」第78編

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