遠雷(第150編)

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配られた数珠

治多 一子

 東京へ腰痛の治療に行っておられたM先生の奥さんがお帰りになったと聞き、今日お伺いした。奥さんは私と同じ女学校の後輩で、また先生とは教科こそ違え、長い間職場が同じだった関係で、親しくして頂いている。
 よもやま話の末、先生は
 「昨年、海軍予備学生五十周年で同期生が、お寺に集まり、あと、みんなで靖国神社に行った」
と話された。
 集会のあったお寺とは浅草聖天町にある、元和八年創立の西方寺で、そこのご住職が先生と同期の予備学生とのことである。
 その寺院に、戦死された同期生の菩提(ぼだい)を弔うためにと、みんなでつくられた一誠観音が祀(まつ)られてある。
 「親一人子一人の家庭で、戦死した子の代わりに年とったお母さんが来られて、つらかった」
としみじみ話された。
 先生の手許(てもと)にある学徒出陣五十周年記念海軍兵科、第四期予備学生、第一期予備生徒の名簿を見せていただいた。
 あちこちの地での戦死と、記入された人の何と多いことか。さらに硫黄島にて戦死、戦艦大和にて(九州南西海面にて対空戦闘にて)戦死との記入が何ページにも及んでいた。
 先生は、同期会のビデオを見せて下さった。一誠観音さんのお姿も見えた。先刻の年とったお母さんの姿も。そして突然、白黒の出陣学徒の壮行式の場面が現れた。
 奥さんは
 「あの壮行式には、美大にいた姉も参加しましたのよ」
と言われた。
 今、ビデオで見た壮行式に私たち当時の女子学徒は全員参加したのである。
 雨の降るなか、傘をさし、身じろぎもせず、最後の一人が神宮外苑を出て行くまで見送ったのである。思えば、あの時の学徒の多くが今、この名簿の戦死者の中に名を連ねておられるのだ。
 先生は
 「住職が、みんなに数珠を配ってくれて、『先に逝(い)った戦友が待っていてくれるから、これを持って行こう』と言った」
と。そして静かに
 「みんな、最後に棺に入れてもらって持って行く」
と、しんみり語られた。
 おいとまする前に私は
 「数珠見せていただけないでしょうか」
とお願いすると、快諾されて机上に出して下さった。箱の中に腕輪数珠を見る私に、こみあげてくるものがあった。
 しばらくして先生は
 「東京に移るつもりです」
と言われた。家も建築中とのこと。お子さんたち、お孫さんたちは東京におられる。
 「あちらには高校(旧制)の友人が十数人、そして戦友が十数人いるから」と。
 先生ご夫妻が、長い間住みなれた大和の地をあとに、東京に移り住まれる日は間近い。

平成6年(1994年)6月28日 火曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第150回)

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