遠雷(第152編)

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歌わぬ友

治多 一子

 八月になるといつも美津子さんの言葉を思い出すのである。
 入寮したとき、私が蘭(らん)の十二室、美津子さんは隣の十一室で、もう一人蘭の二室にクラスメートの法子さんがいた。同じ寮棟であることから、親しくなった。
 法子さんは、学校のそばに家があるのに寮生である。不審に思ったら、同室の大連から来ていた先輩が、
 「あなたたち卒業したら、女子師範学校か女学校に勤めるでしょう。そこの舎監もできるようにと、全寮制度になっているのよ」
と教えてくれた。毎年室替えがあり、それぞれの寮棟は変わっても、私たち三人はよく話しあった。
 最後の春休みに帰省から、寮に戻って来た美津子さんは
 「父が『こうして別れ別れに住んでいるから、だれかは生き残れるだろう』と言ったのよ」。
 法子さんも私も、その場にいたクラスメートも黙ったまま。
 その直後、われわれの寮は東京大空襲で全焼し、住むところのなくなった私たちは、急きょ、群馬県富士見村に疎開した。
 朝は授業、午後は農作業の毎日である。それから数カ月後の八月九日、長崎に原爆が投下された。旧制長崎中学校の先生である美津子さんのお父様と、お母様は一瞬にして亡くなられたのである。彼女におっしゃったのは、虫が知らせたのであろうか。学徒動員で福岡にいた妹さんと、美津子さんは助かったのである。
 寮が全焼した日、学校のそばに家のある法子さんのお母様は避難される途中で亡くなり、そして妹さんは大火傷(やけど)を負われた。
 大連から来ていた同室の上級生は卒業後、母校の女学校に就職が決まったと喜び、張り切っていたのに、帰郷する途中、乗った船が敵の魚雷を受け沈没し、先輩は海の藻屑(もくず)と消えた。
 隣室にいた先輩は母校沖縄の女子師範学校の先生となっていたが、あの「ひめゆり部隊」の隊長として戦死した。先年お参りした現地「ひめゆりの塔」の石に刻まれた先輩の名前を見、涙を禁じることができなかった。
 思い返せば、隣の蘭十一室の面々は、私たち十二室の者と違い、室長さんをはじめ、歌好きがそろっていた。よく、楽しげなコーラスの声が聞こえてきた。なかでも、美津子さんはソプラノでとても美しい声である。いつもカバンをブラブラ振りながら、大きな歌声をあげて歩いていた。
 彼女は今、東京に住んでいる。
 あの悲しい日以来、再び彼女の歌声を聞くことはできない。

平成6年(1994年)8月30日 火曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第152回)

随筆集「遠雷」第76編

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