遠雷(第154編)

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般若心経

治多 一子

 久しぶりに出会った令子さんと私は、コーヒーを飲みましょうと、最寄りの春日野荘に入った。何やかやと話していると、突然、彼女は、
 「いくら考えても、あれは不思議だったわ」
と薬草採りに行った日のことを言い出した。
 方向オンチの私ならいざ知らず、山間に育ち、登山が趣味で、スキーをかつぎ山から山へと渡り歩いたほど、至って山に強い彼女が、突然山の傾斜を、上がったり、下がったり、ウロウロし出したのである。
 そうなると、方向に弱い私も一緒にウロウロし、帰り道を探した。二人が何度も来ているところだから、分からぬはずがないのに。一体どうなったのか。
 動き回った末、やっといつも一休みする場所にたどり着いた。疲れたからここで待っていると言った靖子さんが、
 「あんたら、何だまされているのよ。先刻からずっと声聞こえているのに戻って来ないし」
と、あきれて言ったことを思い出した。
 令子さんは、
 「以前、Y先生が、歩いても歩いても家に近づかないとき『先生、何してはるの』との声でハッと気がついたら、国鉄奈良駅の広場をグルグル回っていたんだよと言っておられたわネ」
と言った。
 私もK寺院の執事さんから
 「老婦人が、浴衣の上にオデンチ着て、お寺前の小川の中をジャブジャブ歩いていた」
とお話しされたことを彼女に言った。
 先日出会ったかつての同僚は
 「M君と一緒に歩いていたとき、K寺院前の小川の中に老人が仰向いて寝ていて、口から水吹き出していたんだよ」
 鯨みたいと思った。さらに彼は、
 「二人で『何してるのですか』と聞くと、『起きられないんです』と言って寝てるんだよ」
 幼稚園児でも入って遊ぶ小川なのに。M先生と二人で老人を小川から助け上げたと言われた。老人と老婦人の話は同じ小川での出来事である。令子さんにこの話もした。
 彼女は
 「山道を歩いていると体がゾクッとする時があるのよ。そんな時とか、夕暮れになって峠越えする時とかに、般若心経を必ず唱えなさいと、子供のときから言われ、そうしてるわ。そしたら、何事もないのよ」
 春日野荘を出て、K寺院門前に住む婦人が、幼いころ、しじみも取り、めだかも取ったという、問題の小川を見た。
 東の畑から三匹の小狸(こだぬき)がご門の前を通り西のお山の方へ行った。最後の一匹が令子さんと私を振り返りジロッと見る。
 「ああ、だまし狸の子孫かな」
 二人は顔を見合わせた。


※ デンチ(でんち):(近畿・中部地方で)袖なし半纏(はんてん)。でんちこ。でんちゅう。(広辞苑 第三版から)

平成6年(1994年)11月29日 火曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第154回)

随筆集「遠雷」第61編

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