山で知った人
治多 一子
あの山の人、敏恵さんと知り合ったのは、昨年の秋である。友人と一緒に薬草を探していた時、話し掛けたのがきっかけである。以来、薬草の所在など教えてもらっている。
彼女は実に物知りである。ある時何かの続きに、ピタゴラスの定理(三平方の定理)を話し出し、さらに二次方程式の解の公式をスラスラ言われたのに驚いた。女学校卒業後、農業を専業に、何十年もたっているのに、実にすごい人だと感心した。
私は数人の友人に解の公式を聞いてみた。大抵は
「全然覚えてないわ」
と言う。ひどいのは、
「そんなもんあったかいな」
である。
ある時、敏恵さんは
「私は苦労するために生まれてきたみたいで、次から次へと絶え間なく、苦しみを背負うて行く宿命なんです」
と話された。幼くしてお父様を亡くされ、長女なるが故に、お母様を助けての生活だった。
ご主人は出仕事の最中に伐(き)った木が枯れ木を倒し、それが背骨を直撃し、むち打ちのようになって、眼(め)だけが動く、寝た切りの状態が何年も続き、先年亡くなられた。ご主人の親戚(せき)の方々は一人残らず心から礼をおっしゃったと聞く。敏恵さんの看病が、どんなに手厚く、行き届いたかがうかがわれる。
彼女は、自身もがんに侵されて、先年手術をされた。週に二回リハビリに町に下って行かれる。
そんな状態なのに、私たちに和歌を教えてくださる先生が神経痛に悩まされ、ニワトコが良く効くとおっしゃったのを思い出し
「ニワトコが欲しいわ」
と言うと、早速わざわざ山々を探し歩いて持ち主に了解をとって、次に、私たちが伺った時、案内して下さり、持参されたはしごと、ノコギリ、ナタを使いたくさん取ってくださった。
私たちはただ、葉をちぎり取るだけでよかった。一息ついたとき
「どうせ背負わなければならない苦労なら、元気で、しっかりと背負って行きます。そして生命ある限り、人様のお役に立ちたいと願っています」
とも言われた。敏恵さんの顔は明るく、目は輝いていた。
中宮寺さんの信徒の会妙光会で会長の京都大学の学長さんで医学部の教授だった平沢興先生が
「病気を毛嫌いせず仲よくつきあっていくことです」
と講演された。その時先生はがんの手術をされておられたのである。敏恵さんの生き方は、まさにそれである。
私たちの和歌の先生に、敏恵さんを来春、お引き合わせできるのを幸せに思っている。
平成6年(1994年)12月27日 火曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第155回)
随筆集「遠雷」第74編
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