人の運
治多 一子
かねがね、M先生から親友が神戸におられるとお聞きしていたので、
「あの地震、お友達どうでした?」
とお尋ねした。先生は
「隣の家までずっと倒壊しているのに、彼の家は倒れなかったそうだよ」
と言われた。
奇跡的に助かったというのは、こんなことをいうのだろう。その時刻に起きておられたから、家具の下敷きにもならず無事だったとのこと。先生とその人、Fさんとは戦時中海軍予備学生で、同じ兵科におられた。二人とも旧海軍の将校である。先生からいろいろ話をお聞きすると、お二人ともよく似た不思議にであっておられる。
昭和二十三年三月三十一日、近鉄の花園駅で大事故があった。先生はいつも、その時刻の電車に乗って通勤しておられたのである。だが、あの事故の当日は、なぜか何となく今日は、ゆっくり行ってもいいわィ≠ニいう気になり、その電車をやり過ごされた。それで、事故に遭わず助かったと言われ、さらに続けて
「それ以前、戦争に行って幾度も危険な目にあっても、不思議に助かった」
と話された。そして
「F君は、関東大震災の数日前に東京で生まれ、本来ならそのまま東京にいて罹災害(り)災したところ、彼は『なぜか分からないが、当日横浜にいて命が助かった』と言ってたよ」
聞くところによると、戦争中、Fさんは巡洋艦に乗っていた。それが敵の爆撃をうけて壊滅し、多くの部下が戦死された。そのときもFさんは奇跡的に助かったという。
二人の類似の話は、ごく最近にもある。
昨夏、先生と同期の予備学生で戦死された方々の慰霊祭が関東の寺院で行われた。数年来の闘病生活にもかかわらず、先生は大和郡山から参加しようとされた。関西からやはり、それに参加しようとする人たちが、自分たちの車で一緒に行こうと誘われたが、体調の加減もあり、何となく気が進まず途中で待ち合わせる約束で一人フェリーで行かれた。約束の場所で待ちに待ったが、車が現れなかった。
数台の車が関係する事故にまきこまれたからだと後で分かった。
神戸のFさんは、地震の日も、早朝から、あの巡洋艦で戦死した部下たちのめい福を祈りつつ写経をしておられたという。
M先生も、Fさんも、きっと同じ強い星のもとに生まれて来られたのであろう。だがそれにもまして、M先生の亡き友を思う心、Fさんの部下のめい福をひたすら祈る真心に英霊がこたえておられるのではないだろうか。
平成7年(1995年)4月18日 火曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第158回)
随筆集「遠雷」第62編
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