踏 切
治多 一子
昨日、かつて、同じ職場にいた人から突然電話で、ブティックを開いているので、だれか知り合いの人を紹介してほしい、と言ってきた。お店の場所も知らないのでは話にならないと、早速自転車で出向いた。
あらかじめ地名は知らされたものの、尋ね回り、交番でも聞く始末。都合よく、オーナーの彼女とも会い「買い魔」の知人を連れて来ると約束して店を出た。
探し回った挙句に到着したので、さて帰るとなると、さっぱり道が分からない。ともかくも、東に向かって行けば、どこか知っている所に出るだろうと、東進した。全く知らない町並みである。
大分進むと、ある一カ所の風景が何か記憶にあるように思えた。遮断機のない踏切が目に入る。ああ、あの踏切だったのだ。まわりは住宅が建ち並び、すっかり変わっている。当時は田圃(たんぼ)が鉄路に沿いどこまでも続いていた。
あの日、私は日直が当たっていた。日曜日のせいでほとんど人は通っていない。ちょうど踏切にさしかかり、渡ろうとした時、向こうから進駐軍の三人の兵士が踏切の半まで来ていた。三人の中で一足遅れた端の一人が、突然、彼の腰のあたりに、刃渡り二十センチくらいの小刀を抜き、私を見つめた。キラッと刀身が光った。
途端、私は殺されると思った。本当は、おどしなのかもしれない。だが数日前、私の担任している生徒の復員して来た従兄が、軍服を着ていたとかで、進駐軍の兵士に、一の鳥居の近くで殺されたと聞いたばかりだったから。
私は覚悟をきめた。殺されるなら、ジタバタしないで、堂々と日本人らしく、立派に死のうと思った。そして彼らの方に向かい泰然自若と歩調をも変えず、真正面を見て真っ直ぐに踏切を渡り出したが、その瞬間、私はしまった!!≠ニ思った。
私がここで死んだら身分証明書を携帯していないから、どこのだれか分からない!!
だが、もう後にひけない。
エイッ、ままよ、真の大和撫子ここにありだ≠ニ、私は彼らの横を、われながら健気にも平然とした態度で通った。心なしか、刃物を持った兵士は私に道を譲ったと思えた。あの時の私の気魄(きはく)を彼は感じたと、今も思う。
私は八時半の出勤時間に十分間に合った。「しまった!!」と思った体験を通して、生徒に言っている。
「生きている限りどこでどんな災難に遭うか分からない。あなたたち、出かける時はいつも生徒証か何か、必ず持って行きなさいネ」と。
あの店へ行ったことが、四十数年前の踏切での出来事を、まざまざと思い起こさせた。
戦後にまつわることで、風化されるものもあろう。だが、決して消え去らぬこともある。
平成7年(1995年)8月29日 火曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第162回)
随筆集「遠雷」第69編
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