遠雷(第164編)

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落ちた写真

治多 一子

 本を探していると、どこから出て来たのか一枚の写真が畳の上に落ちた。チラッと見て
 「あれー、だれかの写真持って来てしまった」
と思った。が、取り上げてジッと見ると、遠い昔の私が写っている学級写真だった。
 元来学級写真は生徒指導部で一括されてあるから、私は一枚も持っていないはずであるのに、なぜこれがあったのか、不思議である。前列の丸刈り頭のY君を見ると、遥か彼方に去った日のことが思い出された。
 ある日、彼は人のいないのを見て
 「僕らの組が三年生に呼び出され、明日放課後、裏山に行きます。先生が全然知らなかったとなるといけないと思って、言いに来ました」
と告げた。
 これはえらいことになったと
 「私も明日、そこへ行くわ」
と言った。私の脳裏には、瞬間、旧制郡山中学校の随分昔、日本刀まで持ち出す通学生と寄宿生との凄烈な争いになる寸前、身体を張ってそれを阻止された名校長百尾先生のことが浮かんだのである。
 だがY君は
 「先生、来ないで僕にまかせてください」
と言う。私は生徒会の役員をしていた彼にかけようと思った。
 Y君にまかせ、問題が起これば、私は辞職願を出そうと腹を決めた。
 呼び出された生徒たちが裏山へ行く当日、私は以前、授業に行った男子学級で過半数の生徒が顔をはらしていたり、バンソウコウを張っていたりしたことを思い出した。そのころは、高校総体で全員が橿原競技場に集合し、出欠点検した時代であった。
 聞くところによると、総体で他校生とけんかになり、負けた相手方の高校生が
 「無念だ。来年はあの学校の生徒をやっつけてくれ」
と言い残して卒業したそうだ。翌年の総体に後輩の仕返しによる無差別攻撃のやり玉にあがったのが、私が授業に行った級の生徒たちだった。
 今日、裏山に行った私の級の生徒たちがあんな風にやられていたらどうしよう、どうか何事もないようにと願った。
 翌日の朝のホームルームで、私はさりげなさを装い生徒たちの顔を見回した。異常が認められなかった。ホッとしてY君を見る。彼からは笑顔が返って来た。
 人間、何事かの大事に遭遇した折、百尾校長先生のように、感銘を受けた人たちの心意気が時を越え、おのずと脈打ち伝わって来るものだと思う。
 あの一枚の写真は、奈良高校旧校舎の前で撮った、全員が男子生徒の二年八組の学級写真だった。

平成7年(1995年)11月21日 火曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第164回)

随筆集「遠雷」第67編

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