本号の『北西航路』は7号であり、事実上、この号が、最後の北西航路同人誌となる。(ただ、未来のことは、人間には知りようもないので、『北西航路8』が編集発行される可能性は完全に零とは言えない)。本号は、1994年4月27日に発行日付が記されている。この一号前の「北西航路」つまり6号の発行日は、1983年05月27日である。実に11年近くの年月が経過している。この間、創作研究会=北西航路は、何をしていたのか。
「歴史年表」を見ると、『風の翼7』が、1986年08月22日に発行されており、この後、1991年から92年にかけて、4冊の「風の翼」が発行されている。また、1992年10月には、20周年記念集会、97年10月には、25周年記念集会が行われている。1986年の『風の翼7』と1991年の『風の翼・特別号』のあいだに、5年の空白があるが、この空白は何であったのか、別の項目で状況説明をしたいと思うが、いずれにせよ、創作研究会=北西航路は、十年のあいだ、何の活動も行っていなかった訳ではない。
南山鳥27の回想乃至、当時の状況記録から言えることは、本号『北西航路7』は、北西航路としての総決算というか、北西航路に投稿されていて、雑誌を発行できなかった為、長年蓄積されて来た原稿を、(ほぼ)すべて纏めて、一冊の同人誌として発行したという経緯がある。南山鳥27は、このように述べる。彼女の述べていることは、ほぼ歴史的に妥当と言えるが、意図的に幾つかのポイントに言及していないことと、実際との食い違いが幾らかある可能性が高い。
とはいえ、『北西航路7』は、蓄積されていた「北西航路」用の原稿をほぼすべて纏めて編集発行した同人誌であるというのは、事実であると考えられる。編集序文は、1994年4月27日の日付となっている(これは実はおかしいのであるが、発行日を4月27日と決めて、この日付で原稿入稿したと考えられる)。他方、綿津見黎の『樹下夢幻』という作品の最後には、作者の記載した日付がそのまま印刷されているが、これは、(1993・6・23 了)となっている。発行日の一年前の日付である。また、西川公祥の「前号批評(Echoes and Reflexions)」は、執筆日付が記載されていないが、本文中に「朝日新聞」の読者欄記事を引用しており、当該記事の日付は、「1983年10月31日」となっている。ここから推量すると、遅くとも、1984年には、この「前号批評」は執筆が終えていたことが考えられる。
ここで挙げている日付等は、記憶によるものではなく、当時の文書記録に記載されているものであって、高度な客観性を持つと考えられる。また、萩裕子の作品は、1980年代初めか、それ以前に書かれたもので、南山鳥27が原稿を受け取った時点も、1980年代初めの可能性が極めて高い(当時の南山鳥27と萩裕子のあいだの書信の原文または複写があれば、このことは、記録上でも確認できる)。そして、何よりも、この同人誌に収載されている作品数や、種類、作者の顔ぶれなどを考えると、これは、かなりな長期間にわたって、集められた原稿であると考えるのが自然である。
これだけ多彩な顔ぶれの作者が原稿を寄稿しているということは、初期以降の創作研究会=北西航路の同人誌としては、たいへんに珍しい。いま一つ、正確な数字は不明であり、記録が存在しないと思えるが、1983年の『北西航路6』は、京都市の大勝堂という印刷屋で制作しているが、これは間違いなく、タイプ簡易オフセット印刷で、タイプ謄写版印刷で制作していた時と同様、原稿とつきあわせての校正作業を行っている。つまり、デジタル入稿ではない訳で、文字入力は、大勝堂でタイプ入力したことになる。
それは、金銭的な問題に直結しており、南山鳥27の記憶では、『北西航路6』の制作費は、30万円を超えていたか、この数字前後であった。また彼女の記憶では、『北西航路7』の制作費は、更に多く、35万円前後ではなかったかと述べている。1980年代には、主として経済的な理由から、同人誌の発行が困難であった可能性がある。1990年代には、経済的に余裕があったのか、4冊の「風の翼」を発行し、更に本号の『北西航路7』を発行できたとも想定できる。
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