2007年7月7日に発行された『風の翼・特別号・深田亨特集号』(35周年記念号)は、深田亨の希望によって編集された同人誌で、南山鳥27は、編集の後期に関与したのみで、編集は、深田亨と山都風位が実質的に行った。丁度、35周年目に当たっていたので、これを「35周年記念号」とした。
本号『風の翼・40周年記念号』は、山都風位が中心となって原稿を集めて来たのであるが、同人誌の編集作業は、南山鳥27が行った。実際の40周年は、2012年10月で、この同人誌が発行されたのは、奥付に記されている年月日が正しく、2014年12月20日である。従って、実質的に、2年の遅延が生じている。
しかし、42周年記念号というのも、いささかおかしいのと、同人誌は40周年記念号として企画され、原稿が集められたという経緯がある。最終的に発行された通りの形に、集まった原稿がなるのは、2014年11月から12月初めである。2014年以内に発行したいと考え、最終段階で随分と慌ただしかった。それは、連絡掲示板における南山鳥27の様々な書き込みからも窺える。彼女は同人誌に「記念号」としての体裁を整えるため、短時間のあいだに、様々な企画を打ち出し、趣向を凝らした。
この号の同人誌については、幾つかの特筆しておくことがある。一つは、特別寄稿として、野阿梓氏に随想を賜ったことで、依頼段階では、実際の同人誌掲載に見るような長い原稿を想定していなかった。野阿氏の言葉では、当方に原稿を依頼すれば、当然に長くなる、とのことである。そうであるのかも知れないが、とまれ記念すべき40周年号に、長年の客員であった野阿氏の玉稿を掲載できたことは幸甚なことで、この点、野阿梓氏には、深く謝意を表する次第である。
また付記すると、南山鳥27は、小説を書くことができなくなっていたことがある。小説以外の雑文だと、色々なものを、彼女は多数書いていたが、「小説」の体裁で書こうとすると、書くことができなかった。この文章を記している現在は、2016年の12月で、この時点から振り返ると、何故小説が書けなかったのか、その理由が南山鳥27には分かるようである。彼女には、従来というか、過去に書いた小説のスタイルやその出来具合が、ことごとく、違和感があり、失敗だと感じられた。畢竟、才能がないということを自覚したということであろうが、しかし、才能がなくとも、相応に小説は書けるし、書かねばならないとも言える。
南山鳥27の個人事情とは別に、野波恒夫は、200枚とか、400枚の作品は幾らでも書けるが、50枚では作品は書けない。そこで、200枚近くの作品しかないということで、これを「上中下」の3部に分けることにして、この号では、その「上」に当たる、「第一部」を掲載することにした。また、篁はるかの『緋色の帯』は、南山鳥27のもともとの計画では、巻頭に置く予定だったが、この作品を含めて、一連の作品群を、篁が自費出版で活字にしてしまったため、この作品を巻頭に置くことができなくなったと南山鳥27は述べている。
篁はるかの作品が、すでに活字となった短編一編となったため、南山鳥27は、別の未発表作品が必要だと考え、その旨を篁に告げた。篁は、長い作品と短い作品が手元にあるという。どういう作品なのか分からないため、二つの作品を送り、それらを読み比べた上で判断すると、南山鳥27は篁に伝えたが、篁は、長い作品しか送って来なかった。そのため、時間的な制約もあって、この長い話を掲載するしかなくなった。南山鳥27は、巻頭作品として、海鳥の『落ちる』という作品を繰り上げた。
ともあれ、2014年内にできあがるかどうか、印刷所との調整で困難もあったが、版下担当である、山都風位のぎりぎりでの頑張りもあり、幸運もあって、この年が過ぎる前に、同人誌を発行することができた。色々と思い出深い同人誌の号である。
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