東海道57次ウオークの旅  最終更新日 06年9月25日




(旧東海道の54次目の伏見宿を目指す途中で見た風景 06.9.2撮影)



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2006年に、東海道が53次でなく57次であったことを知りました。
東海道が「53次であった」と広く世間にインプットされたのは、葛飾北斎が「東海道53次」を世に発表してからのようです。

そもそも聞きなれない「東海道57次」とは一体何なのか?
それは次のようなものです。

旧東海道は5街道の一つで、1601年に徳川幕府の手により江戸から京都までの53の宿駅・東海道53次が整備されたものが旧東海道53次。
豊臣秀吉は、それより前に大阪と伏見間の交通を円滑にするため、淀川沿いの堤防兼用道路である「文禄堤」を完成させました。
旧東海道が完成した頃、大阪城では豊臣家が権勢を振るっていたため、徳川幕府は京都から先の大阪まで街道を延伸しませんでした。

1615年に大阪城が落城すると、徳川は東海道を大阪まで延伸し、伏見、淀、枚方、守口の4つの宿場を作り、大津宿から大阪・高麗橋までを含めた東海道57次が完成しました。
東海道57次は、参勤交代の大名が入洛し朝廷と交流することを嫌った徳川により、大津宿から先は京都・三条は通らず伏見を通る洛中迂回路になりました。


ちなみに、大津宿から髭茶屋追分間は53次と同じコースです。
髭茶屋追分から、伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経由して大阪の高麗橋に至る道が、東海道57次の大津〜大阪間のコースです。

東海道が57次あったという事実は、世間一般にほとんど知られていません。

東海道が53次ではなく57次であることを知ったことをきっかけに、私は東海道57次全てのコースを歩破しようと心に決めました。
かなりのロングコースなので、一気に歩くわけには行きません。
まずは近郊から歩いていって、そして次第に歩いた場所を増やしていこうと思います。


東海道57次をこま切れに歩くというこの私のレポが、「旧東海道を歩いてみたいけれど無理だと思う。」「歩けるはずがない」という方の歩こうとするきっかけや意欲付け、そして励みになればこんなに嬉しいことはありません。

東海道は53次ではなく57次まであったんだ!








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