Top一般ログ>03年06月
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更新リスト
2003/06/10 バカの壁の感想
2003/06/13 過去
2003/06/14 能ある鷹は爪を
2003/06/31 短期記憶距離
Title: バカの壁の感想
Genre: 今日の一言
Date: 2003/06/10
Option:

 昨日は頑張った。だから、今日は日記はお休みだ!
 とか思ったら翌日は2日分更新しないといけないんですね。

 物事の段取りは、手段を違えると効果が反転します。人生においてはそういう場面は多々あるので気を付けましょう。

 さて、話は変わりますが今日は部屋の掃除をして、その合間に養老孟司さんの『バカの壁』という本を途中まで読みました。途中から疲労で寝ました。なので途中までだけですが、以降はちょっと気になった部分の感想です。


 以前から思っていた通り、養老さんは比喩が巧みで実例を引っ張ってくるのが巧いので、この本は当人が書いたものではないにも関わらず、非常に読みやすくなっていました。文章の導き方が巧いといいますか、読み手に配慮しているといいますか。雑誌とかのコラムでも解かる通りそれは毎度のことですね。

 特に学部生に『出産シーンのビデオ』を見せて、その感想が男女では大きく違ったという話で、男は「とくに得られるものは無かった」といったのに対して、女性の方が「すごく勉強になった」と答えたあたりが良かった。

 自分の知るべきことや知りたいことについては、深く知ろうとし、関係の無い事については耳を塞ぐ。この辺にバカの壁があるのだ、という導入は解かり易くて秀逸。



 でもこの養老さんは、頭が柔らかいのか硬いのか、ちょっと微妙に感じました。感覚としては、半分固まったコンクリートで新しい造型を作るような、LEGOのブロックで新しい世界を創るようなそんな感じです。

 ビルを建てるのはLEGOだろうがコンクリートからだろうが構わないのですが、微に入り細を穿って見た場合、LEGOで作られたものには違和感が出てくる。スケールが大きければ大きいほどそれは目立たなくなるのですが、ミクロレベルまで当てはめていこうとすると、違和感が出てくる。

 熱せば解ける鉄や、新しいコンクリートで建てたらそういうのがないのでしょうが、養老さんは既存の概念を自分の常識というカタチで保たせたまま、次の概念に組替えてるような…?


 本には個性について述べるくだりがあるのですが、それを「人が笑っているところで泣いて、お葬式で泣いている所で大笑いをする」ことも個性として表現して、今流行りの「個性を伸ばす」という言葉について異論を唱えています。確かに個性を文字通り「他者とは異なる性質」と受け取るなら、それはそうなのですが、現実的に個性という言葉を使う場合はそれ以外の条件も備えて使われていることも考えないと意味がありません。

 身体的なものはそのまま使われているので特記しませんが、情報処理的なものに関していえば、それは「情報を受け取ってどう思い、周囲が理解できるような形でどうアウトプットするか」という違いが個性として使われる場合が多い。


 それを逸脱すると「個性」ではなく「おかしな部分」として扱われることになる。昔の日本ならともかく、今ではそういう「おかしな部分」を持つ人というのはアウトサイダーとして排斥されがちです。


 つまり、「個性を伸ばす」という言葉は、そういう「おかしな部分」を除いた部分として、つまり社会的に貢献できる形として発露するであろうことがあらかじめ期待されて表現されているので、いちいち否定するのは詮無いことなんです。

 より面白い受けとめ方、より効率的な受けとめ方、そういったものは変えていくことが可能であること、加えてそれを周囲が理解できる事、そういったことを前提にして「個性を伸ばせ」という言葉が使われているのですから、それを否定するのは無理矢理な感じなんですね。

 実際浸透して使われている言葉を否定する場合、極論を用いるよりも、実際にどういう意味で使われているのか、そしてその結果どういうことになるか、を考えつつ具体的に否定したほうが効率的だと思うのですがどうでしょう。


 個性という概念を自分のカタチで保たせたまま、新しい概念に組み立てていき、次に現実部分を否定するというあたりが硬いのか柔らかいのか微妙に感じた理由です。まだまだ『バカの壁』も前半部なので、後半は違った展開を見せるのかもしれません。

 読みやすいので続きはすぐに読みそうな予感。



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Title: 過去
Genre: 今日の一言
Date: 2003/06/13
Option:

【過去】

 われわれがわずかながら知り合い、しかも知り合ったことを後悔せざるを得ない永遠の一部分の、そのまた一小部分。
 過去は、現在と呼ばれる絶えず動いて止まぬ線によって、未来という名で知られている想像上の一時期と区分されている。
 過去と未来は永遠の二大区分であるが、その性質は完全に異なっていて、過去は片時も休まずに未来を抹殺しつづけている。
 過去は悲しみと失望とで暗く、未来は繁栄と喜びで明るい。過去は咽び泣きの領域であり、未来は歌声の世界である。
 過去にあっては、記憶が荒布を着、灰を頭からかぶって(深く悔いる形)悔悟の祈りをつぶやき、未来にあっては、希望が日の照り輝く中を思うがままに飛び廻り、成功の殿堂と安楽のあずまやへとわれわれを差し招く。
 にもかかわらず、過去は昨日の未来であり、未来は明日の過去なのであって、けっきょく、両者は同一のものであるに他ならない。

 ――A・ビアス『悪魔の辞典』より

 こんばんは、咲村です。

 今日、何気なく悪魔の辞典を読んでいて思ったのですが、確かに過去の全てを後悔としか捕らえられないなら、希望に満ちた未来も後悔にしか変わらないことでしょう。

 たしかに人間というのは、現在が指し示す方向に未来があると勘違いするクセがある。そして、現在が指し示すのは、自らの経験が指し示す方向だと思い込む傾向もある。

 しかし、実際はそんなことはありません、全く予想もつかないことが起こるのが現在であり、未来なのです。


 きっと人生捨てたものじゃあ有りませんよ。


 こう書くと良い事があったみたいですが、そんなことはなくて。



 何の事はありません、念のために傘を持って外出したら帰りには雨が止んでいることの意外性について、少々悩ませられただけです。



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Title: 能ある鷹は爪を
Genre: 今日の一言
Date: 2003/06/14
Option:

 妹は、生のキャベツなどの生野菜を食べていると『草食動物の目』になってきて、段々ぼんやりしてくるそうです。

 さてこんばんは、咲村です。

 有名な諺に、能ある鷹は爪を隠す、というものがあるのですが、先日面白い意見を見かけました。

 要約すると 『考えてみれば、隠すまでもなく才能を発揮できる人の方が凄いんじゃないか。たまたま凄い事ができた人に対して使われることが多い気がするし、それなら常にクウォリティの高いものを要求されてクリアしていく、あるいはクリアするための努力をする人のほうが凄いのではないか』という感じです。

 実際にこの諺を使う場面というのは、考えてみると難しいものですね。

 凡庸とした人が意外な才能をしかるべき場所で発揮する、なんて状況は普通に暮らしていればとてもとてもないでしょうし、そこでその諺を使うというのもあまりないでしょう。

 確かに、才能があるなら隠すまでもなく使うべきでしょうし、使わないなら勿体無いだけでしかありません。そこに存在する謙虚さは無駄の一言で切り捨てる事も可能です。


 だから、ふと思うに『能ある鷹は爪を隠す』と言う言葉は、もしかして必要以上に隠さざるものに対して使われるために作られたのではないでしょうか。

 つまり、わずかばかり出張った才能をみだりに自慢する、表現する。そういう人に使うために生まれた言葉だと考えてみると、日本人の文化らしくて面白いように思います。と同時に、中途半端な才能が、本格的な仕事に手を出すと怪我をする。という警告としても受け取る事ができて尚更面白い。


 『嚢中の錐(のうちゅうのきり)』という言葉があります。袋の中に入れた錐は、放って置いても自然に先が出てくる、という意味ですが、これは勿論、錐を才能のある人に喩えているのですね。これはそのまま才能のある人のために用意された言葉だ。



 そう考えるならば、人間というのは実力が伴っていないのに、無闇に中身を表現すべきではない、ということなのかもしれません。

 名前なんてものは後から付いてくるのでしょうしね。








 自称実験サイトのいうセリフではありませんね。



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Title: 短期記憶距離
Genre: 今日の一言
Date: 2003/06/31
Option:

 溜めたら面倒なのは解かっているのに、何で溜めるんだ僕は日記を_| ̄|○

 さぁ書くぞ!思いつくまま気の向くままにひたすら筆を取れ!意識とは何か。それは短期記憶されているものそれ自体をさす。7852454という数字を見た瞬間、意識には『文章の流れ、数字、現在の文字列』という三つの意識が分割されている。ところが7852454という数字を覚えろといわれたらどうか。


 7852454


 憶えただろうか。そらんじてみるのが良いだろう。さぁ。さぁ。さぁ。


 そしてこの瞬間あなたの意識は『さぁ』に奪われてしまった。困った事である。そもそも人間が注意できる限界とはどのあたりにあるのだろうか。例えば数字。一般に数字を覚えることのできる限界は文化ごとの異なるもののおよそ7桁程度といわれている。これは意識を完全に分割した場合の限界区分量とイコールであると解釈する事ができるだろう。研究者はそれに気が付いていたかはともかく、それ以上分割して短期記憶できないということは、とりもなおさず希薄化された意識の限界とは7つが一般的であるという事実を指し示していることに他ならない。

 例えば聖徳太子を例に取ってみよう。通称上宮聖徳王。ハンドルネームは厩戸豊聡耳皇子である。違うけど。


 ちなみに聡耳というのは聖徳太子がたくさんの人間のいうことを同時に聞き分ける事の出来るという無駄に凄い才能の持ち主であったことから来ている。『日本霊異記』ではその人数は10人とあるが、妖怪や奇怪な出来事を扱った霊異記なので信用は置けない。つまりここは『上宮聖徳法王帝説』を参照するがいいだろう。社会の『日本史』にイジイジと隅っこのほうで出てくる伝記である。こちらに記載されている同時聞き取り人数は8名。常識的に考えてこちらが正しい気がするのでこちらを採用。

 8名といえば限界意識量を凌駕しているとかそういう話題ではない。


 意識の分割量はせいぜい頑張っても6〜10が限界だろう。では次にそれらに意識を集中することはできるか否か、ということに論点は発展していくのである。

 レインマンという映画をご存知だろうか。サヴァン症候群といわれる、重度の知的障害と同時に天才的な才能を持つ人を扱った映画のことだ。レインマンではサヴァン症候群のイメージを抽出して表現されているのがとみに有名である。電話帳を一瞬で暗記することはおろか、彼らにかかれば景色は一瞬で全て記憶され、ピアノの曲は一度聴くだけでコピーされ、計算的な暗算は一瞬にして何万桁を超えてしまう。ずば抜け具合が半端じゃないのだ。

 これは一つのことに対する集中力が桁外れだと見ることもできるが、拡散した意識の集中に優れているとも捕らえることができるのではあるまいか。才能や努力かはこのさい不問にしよう。それが人間にできるか否か、つまりそういうことなのである。






 僕が日記5日分を同時に考えて書くことができるか否かという問題なのである。












 無理。



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