vol.12>>

1997. 6.17(Tue.)〜20(Fri.) 前から両親がハワイに行くのでお前も一緒に行こうといわれていたのですが、この辺りから徐々に仕事が入ってくる予定だったので行けるかど
うかわからなかったところ、ぎりぎりになって4日ほど休みがとれるということがわかったので、一瞬顔を出しておこうと思い、土曜日に旅行会
社に問い合わせてみました。でももうハワイは日曜日だからホテルとかとれないので無理ですよと言われて、ああ悪いな母ちゃん、と思いなが
ら、神頼みで旅行に詳しい百瀬さんに連絡しました。百瀬さんはこの次の日から病気で入院という状況であったにもかかわらず、僕のために
一生懸命旅行会社に問い合わせてくれて、ばっちりチケットが取れました。そして僕は17日火曜日からハワイ2泊4日の旅に旅立ちました。
ハワイまで8時間半ぐらいかかるのですが、ほとんど飛行機の中にいたという感じで、これも行く前日あまり寝ないようにしていたので、飛行機
の中でよく眠れましたね。だから、気が付いたらハワイまであと1時間という感じでした。そう言えば、この時期に実はファンクラブで行く予定だ
ったのですよ。だから少し後ろめたい気分もありつつ…。ハワイはオアフ島に行きました。空港から30分ぐらいでホテルに着くんですが、高い
金払ったつもりなのに、初日のホテルが最悪で、2階だったんですけど、玄関の上なんです。玄関ってなんか雨よけのベランダみたいなのがあ
るじゃないですか。まさにそこだからすぐ玄関の屋根が見えて、でっかい、出れない巨大なベランダが目の前にあるんですよ。それで町が見え
てて、全然つまんないんで、即、替えてくれと言ったのですけど、今日は無理だと言われて、しかたなくその部屋に泊まることにしました。その
後、両親に会うまで、海の見えるとこでお茶を飲んだり、泳いだりして待ってました。天気はよかったです、鉄砲撃ったりして楽しかったです。そ
れから両親にめしをおごって20日に日本に帰りました。ぜひ今度こそハワイ・アン・シエルを実現させたいと思っているのでみなさん怒らない
で下さい。ハワイはすごくよかったですよ。また行きたいなと思いました。
1997. 6.24(Tue.) ハワイから帰ってきて、リハーサルがスタートして、どの曲をシングルにするかという選考会がこの日に行われました。それで今回のシングル
の『虹』が選ばれました。kenちゃんの曲なんですけど、今回は一つのイメージを持って曲作りしてたんですけど、なかなか目指しているイメー
ジの曲ができないでいたら、kenちゃんの曲が僕のイメージにぴったりだったのですよ。あっ、これだと思って。でもみんなも同意見だったので、
この曲が次のシングルになることが決定しました。その後ちょっと暇ができたので、入院中の百瀬さんのところにお花を持ってお見舞いに行き
ました。百瀬さんはなんか、ここにいたらますます病気になるような暗い部屋で闘病生活を送ってました。楽しそうでした(笑)。それでまたシン
グルにむけて曲の煮詰め作業にガッと入って終わり。
1997. 6.28(Sat.) 今回は新しくアートディレクターを変えてスタートしようということで、うちのディレクターに薦められてモートさんという、名前は外人なんですけど
顔は日本人という人(実際、彼はハーフなんだけど)のところに、作品をみせてもらいにいきました。彼の事務所は自宅と隣り合わせにあって、
すごくかっこいい部屋で、僕もこういうとこに住みたいなと思っていたら、そこにモート氏が現れました。一体どんな人が来るんだろうと思ってた
ら、なんというか、きれいじゃないですか。好みにもよるかもしれないけど、僕はきれいな人だなと思いました。それで声が、すっごくちっちゃい
ので、ほとんど2メートル以上離れると何言ってるかわかりません。だけど会っていきなり、ちょっと聞こえづらいですとか言いづらいので、聞こ
えてるふりをしてました。でもなんとなくいい作品を作りそうな人なので、ちょっと期待してあとにしました。
1997. 7. 1(Tue.)〜 7月に入ってからは連日リハ。曲出し会のときに、普通はシングルが選ばれて残った曲の中からカップリングを探すんですけど、どうも俺には
その中にカップリングにしたい曲がなくって、俺が作ると言って強引に家でのりのいい曲を作ろうと、2日間自宅作業をしました。それでできた
曲をスタジオに自信なく持っていったところ、思ったよりいい反応があったので、みんなでその曲を完成型にもっていく作業をしつつ、夜は作詞
をするという生活が続きました。
1997. 7. 7(Mon.)〜 ハワイに行く前に手伝ってもらえるドラマーを探さないといけなかったのですが、僕は5月ぐらいから新しい楽器を練習しに、とある知り合いの
スタジオに通っていて、そこでいつも元Die In Criesのユキヒロさんとしょっちゅう顔を合わせていたんですけど、なんか自然の流れで一緒に
やろうということになって、それで6月10日にみんなで何曲か曲を合わせて、最終的にユキヒロさんで決まりました。『虹』はユキヒロさんのド
ラムです。そしてレコーディングスタート。でもこの時点で『虹』の詞はほとんど完成していたという、すばらしい!今までに例をみない形でした
ね。スタジオにはほとんど毎日行きました。非常に順調で、詞のほうもちょこちょこっとディレクターに文句を言われましたが、賢いhyde君はうま
くそれをかわし、見事歌い上げました。すごく気に入った作品ができたのでした。
1997. 7.26(Sat.) 台風の日。デモテープのレコーディング。スタジオで、この日テレビで4夜連続でやってたエバンゲリオンの第3夜をやってて、百瀬さんがまだ
見たことがないというので、僕がうざったそうな顔の百瀬さんに解説しながら、ずっと見てました。エバンゲリオンは5回ぐらい見ているので、い
まさら見る必要もないのですけど、それを見ている百瀬さんの顔を見てるほうが楽しかったです。見下すように見てましたね(笑)。
1997. 7.30(Wed.) R&R News Makerの表紙撮影でした。これは前からやりたい表紙案がいくつかあって、そのうちのひとつで、その任務を遂行しただけなんで
すけど、たぶんかっこいい巻頭になるんじゃないかなと思っている次第です。スタジオとロケがあって、一日でやろうと思ったんですけど、スタジ
オ終了後、いざロケ地に行こうとするとどえらい雨になって、こりゃあだめですなということになってロケが延期されました。それでスタジオに戻
ってまたスタジオ撮影して、かっこいいのができました。
1997. 8. 2(Sat.) 土井さんのところに行ってR&R News Makerの連載の作品作りを行いました。とりあえず二つやりたいのがあって、簡単なほうからやろうと思
ってその日はスタートしたのですけど、結構時間がかかってひとつしかできまくて、来月号のセルフポートレイトができなかったので、もう一回
やらせて下さいねって言ってその日は帰りました。
1997. 8. 3(Sun.) この日はまたモートとお仕事で、モートがまたアーチスティックな表情で「ハイド君はキャミソール着たらいいよ」と言われたので、僕はキャミソ
ールを着て撮影に挑みました。結構最初は嫌だなと思っていたのですけど、すぐになれました。撮影はスタイリストさんの変わった部屋とその
近所。それで何か変な雰囲気の一日でした。トラックの前とかで写真を撮ったのですけど、外人のカメラマンが撮るからかっこいい雰囲気にな
るのかなと思ったら、そのままトラックの前で撮っただけの写真でした。
1997. 8. 5(Tue.) 雨で中止になったR&R News Makerのロケ分の撮影をおこなったんですけどこの日も雨。これは新しく入ったマネージャーの関が雨男のせい
だと思っていたら、tetsuちゃんのときは晴れたらしいので、と言うことは俺が雨男なのかな。この休暇中に僕はどうも雨男になったみたいです
。古い建物のある公園で傘さして撮りました。もともと晴れてても傘さしてやろうと思ったからまぁいいやという感じでいったんですけど、その公
園は蚊がうじゃうじゃいて、餌食になりに行ったかのようにみんな蚊に刺されまくって、ボリボリかきながらの撮影になりました。でもかっこいい
と思います。それで打ち合わせをチョコチョコとして帰りました。
1997. 8. 6(Wed.) また先送りになってたセルフポートレイトの連載ページの10月号の作品づくりをしました。この日ぐらいからお盆休みに平井ちゃんと富士山に
登ろうという富士登山の話が具体化してきてました。富士に登った人っていうのはあんまりいないんですよね。みんな間接的で、友達が登った
ことあるよとか言う人はいるんだけど、本人が登ったというのは百瀬さんが小学校の頃に8合目まで行って断念したっていうのしかなくって、お
互いの情報収集した話をこの日も平井ちゃんとしてました。
1997. 8. 7(Thu.) この日は『虹』の選考会に漏れた曲をレコード会社の人がもうちょっときれいな音で聞きたいとおっしゃったので、じゃあちょっとスタジオ借りて
デモテープをつくろうかっていうことになって、3〜4曲分つくる目標でスタジオに入りました。それで打ち合わせして終わり。
1997. 8. 8(Fri.) 久しぶりのロングインタビュー。だからまだインタビューなれしてないというか、初々しいhyde君がそこにありました。だからほんとはとんでもな
いこともいっぱい言っちゃったんですけどカットしたりしました。
1997. 8.10(Sun.) Ki/oonとFM横浜がタッグを組んで海の家を江ノ島につくってたんですよ。で、今年の目標としては富士登山と海に行って泳ぐというのがあった
んで、この日を逃してはいけないと思って、百瀬さんを引き連れて江ノ島に行きました。朝の10時に百瀬さんがうちのベルを鳴らすって感じで
、ピンポンって。あの日は暑かったんですよね。海に行きなさいっていう天気で、日頃の行いがいいんでしょうね。そんで車に乗ってガッと第二
京浜飛ばして江ノ島のほうに行ったんですが、いろいろ百瀬さんがナビゲーターしながら裏道通ったりして行ったんですが、結構すいてました。
でも、駐車場が満車状態でどこにもないんです。ああだめだねとか言いながら一周しようとしたときにお兄さんに声掛けられて、「兄ちゃんうち
に車一台置けるけど止めない」って言われて、「止める、止める」と、民家のでっかい駐車場持ってる人が、個人で勝手に営業してるようなとこ
ろあるじゃないですか、そういうとこに連れて行かれて、もの盗まれたりしないかなとか思いながらそこに止めました。日本の海はほんと10年
ぶりぐらいで、久しぶりに行くといい感じで、お祭りっぽくて、日に焼けたりなんかしちゃって、皮がむけました。
(百瀬談:ただ翌日に雑誌の撮影があるので、お願いだから顔だけは焼かないでくれって…)
と言われまして、一応日焼け止めを顔にぬったりなんかしちゃったりして。日に焼けるというのも10年ぶりぐらいなんで、ついつい前ばっかり焼
いちゃって、うちに帰ったら体半分うしろは真っ白という、ちょっと情けない体になってまして、ちょっと後悔しました。海はいい感じだったんです
けど、帰りが大渋滞で結構苦労して都内に向かいました。
1997. 8.11(Mon.) WHAT'S IN?の表紙の撮影をしました。カメラマンは菅野さん。カンちゃんは前のSHOXXの表紙のときも一緒だったんで、ちょっと仲の良い感
じです。代々木公園のなかに行って、セミのぬけがらとか取りながら撮影しましたね。この日もすごく暑かったです。
1997. 8.13(Wed.) いよいよこの夜、構想2年半ぐらいの富士登山が行われました。いろいろ情報収集した結果、富士登山に持っていくものはヘッドライトと酸素と
防寒着ということで、それらを買いあわせて、前々から富士の頂上でコーヒーを沸かして飲もうと決めていたので、携帯用のコンロとかをリュッ
クに入れて富士に向かいました。富士に行くのに河口湖から5合目を目指したのですけど、その日はお盆規制で5合目の駐車場が混むから5
合目にはマイカーで行くなという指令が出てて、おいおいそういうことは聞いてねえよと言いながら、仕方ないのでバス停の駐車場に行ったら
、今度はバスを待ってる登山者がいっぱいいたんですよ。20人ぐらいバスを待ってて、俺はこいつらと一緒に行きたくねぇなと思ったんですね
。そこでもう一回麓に戻ってタクシーで行こうとなって、富士急ハイランドのホテルで車を止めてタクシーをつかまえようとしたんですけど全然つ
かまんなくって、30分ぐらいタクシー探したんですけどだめで、どんどん時間が過ぎていって…。ほんとは朝日を頂上で見たかったから、それを
計算すると9時に歩き始めなあかんかったのにその駐車場ですでに9時まわってて、もう9時半になってもタクシーがつかまらないのでやっぱ
りバスで行こうと思って、結局またバス停まで戻って、ピストン輸送してるバスに乗り込んで5合目まで行きました。その時点でもう10時半ぐら
いになってて予定はかなりオーバーしていたのですが、お店で下に焼き印で5合目と書いてある杖を買って11時ちょうどにそこから頂上に向
けて出発しました。富士山は全部で10合まであって、車で行けるのは5合目までで、そこからは歩きなんですよね。俺はリュックにウォークマ
ンなんか入れちゃったりなんかして、かなりしんどいだろうとは思ってたんだけどのんびりと音楽聞きながら登ろうと思ってたんですよ。でも、最
初の6合目までは普通約30分かかるのですけど、そこに到着した時点で心臓がバクバクいってるんですよね。6合目というのは一番短い距
離で、小手調べみたいなところなんだけど…。それで6合・7合と焼き印屋さんがあって、6合に着いたら6合の焼き印を押してくれるんです。そ
うやって登っていくんですけど、もうすごい過酷な感じで、僕の人生のなかで体力的に一番辛かったですね。学生時代のマラソン大会で一周し
てゴールした時点が6合目ぐらいのしんどさなのに、そっからまだまだ頂上までがあるんで、もう泣きそうでした。しかも7合目ぐらいから雨がポ
ツポツと降り出して、最初はすごくきれいな星空だという情報だったので、それを期待しながら登っていたのですけど、星どころか雨が降ってき
て、僕は長袖のTシャツと薄手のコートを着て登ったんですけど、雨に濡れて、雨宿りしようにもホテルしかないんですよね。休憩するとこもある
んですけどところによってはホテルしかなくって、ホテルは雨宿りするような屋根もなく、ほんとに泊まるか雨に濡れるかで、これ以上雨に濡れ
るとやばいなという感じだったんで、とりあえず8合目の時点で、頂上での朝日は断念して、とりあえず2時間ぐらい寝ることにしました。そこは
10人ぐらい横に寝れるベッドがあって、そこでコートを乾かしながら俺は裸になって寝ました。2時間ぐらいたって目が覚めると、雨はやんでいた
のですけど、もう太陽が見えそうに白んできてて、これはもう登り始めなあかんと思って平井ちゃんを起こして、またスタートしました。それから
1時間ぐらい登ると、ずっと太陽が見えそうで見えない感じで、すごく雲があったからなかなか御来光は見えへんなとか言いながら、ちょっとお
腹空いたんでカレーでも食べようかと、8合目のカレー屋さんでカレーを食べました。食べてる間に御来光は出てしまったみたいで、太陽が出
る瞬間は見れませんでした。8合目とかで水とかも当然ないですから、そこで働いてる人たちは一体どういう生活をしてるんだろうと思いながら
カレーを食べました。大体物価が8合目までは通常の倍ぐらいの物価。8合目以上になると3倍の物価になってましたね。カレーはレトルトの
カレーで、800円ぐらいだったかな。そのぐらいだったような記憶。だからわかりやすく言うと、缶コーヒーが8合目までは200円で、8合目超え
ると300円になる。8合すぎると500メートルも歩くと疲れてすぐ限界になるんですよ。ずっと心臓がドキドキしたまんまで、すごい傾斜です。い
ろんな道があるんやけど、砂利道だったり、人がひとりしか通られない岩山だったり、階段だったりして、ずっと階段ぐらいの傾斜ですね。50メ
ートルおきに、ハアハアいいながら酸素を吸って3分ぐらい休憩しました。ライブとかでよく酸素を吸うんですけど、富士登山で初めて酸素の意
味がわかりましたね。ほんとうに吸うと楽になるんです。それでなんとか頂上にたどり着いて、頂上には神社と4軒ぐらいの茶店みたいなもの
があって結構栄えた感じ。頂上に着くころには晴れ間も何回かのぞいたり、雲海もちょこっと見えたりしていい感じでした。富士山の河口を見な
がらコーヒー沸かして飲んで、2〜3時間頂上にいたかな。やっぱり酸素が薄くて、ちょっと歩くだけでも苦しい感じ。外人も結構多くて、5分の
1ぐらいは外人だったかな。なんか富士山ってションベン臭いんですよね。みんなそこらじゅうでするからかな。トイレはあるんですけど、前に男
の子が座ってて、人が来ると50円って。俺は富士山のバイトのなかで一番彼がいやな仕事だろうなと思いましたね。またトイレが臭くて、昔
懐かしい感じで、便所虫がいそうなとこで50円も払ってしました。コーヒーはおいしかったです。疲れてるからかもしらんけどチョコレートがすご
くおいしかった。あと、登ってるときって抜かされるのがすごく恐い。なんでやろ、すごく人生に似てる。休憩してるときに抜かされるのはまだい
いんだけど、歩いてるときに抜かされるのはすごく悔しい。でもそれも8合目超えたぐらいからどうでもよくなりましたけど、それでも休憩してると
きにお婆ちゃんとか、結構年輩の方も登ってるからお婆ちゃんとか登ってくると恐いね、脅威を感じる。すげえ、こいつらに負けられへんと、頑
張りましたよ。それで3時間ぐらいして下り。下りはずっと砂利道を下っていきますけど、下る瞬間から雲の中に突入していく感じで、ずっと霧の
小雨に近い感じで、天気最悪で、下までずっと小降りの雨でしたね。下りは、霧で10メートル先ぐらいしか見えないから、同じ景色をずっと見
ながら二人とも無言のまま、自分のペースで下りました。それで5合目に着いたときに二人で握手して終わりました。5合目からはまたバスで
車のとこにいったんですけど、5合目で休憩してると頂上に行った人と行ってない人が顔でわかる。下りてくる人の顔とか靴の汚れとか見て、
この人頂上まで行ったかどうかがわかります。みんなもう顔が死んでますね。杖もちゃんと揃って、5・6・7・8・9で最後に富士頂上というハン
コを神社で押してもらって、それが勲章となって帰りました。戻ったのは14日の夕方近かったかな。運転して帰ってきたのです。おもいっきり飛
ばして帰りました。杖持ってるから手にも水膨れができて、それで雨に濡れてるからお風呂に入りたかったんですよ。思いっきり寝ましたね。
次の日は筋肉痛で、その日また寝て、次は足が熱もってて、足が熱くて目が覚めました。5日ぐらいで普通の状態に戻ったかな。
1997. 8.16(Sat.) シングルできたんですけど、社長が文句言ってもう一回取り直したんですよ。それと同時に、例のモートのデザインチェックがあって、最初夕方
の4時前にくるという話があったんだけど、むこうもできてなくて、こっちも作業の真っ最中だったから、作業終わりの夜の2時ぐらいに行くよって
いってたら終わったのが結局朝の5時だったんです。それからモートのとこに行ったから、これはもういやな気分で、自宅兼事務所だからもうか
なりヘビーな状態なんじゃないかなと思ってたら、モートがなかなか出てこないんですよ。アシスタントの人に事務所で待ってて下さいって言わ
れて待ってるんやけど、結構30分ぐらい出てこなかったです。アシスタントの人もいなくなって、二人とも寝てるんとちがうかなって思ってたら
、モートがボーッと現れて、マック打ち始めて、ジャケットのデザインをマックの画面で見せてくれました。「明るいから見えにくいんですよね」と
言いながらジャケットの絵が出てくるんだけど、まだ少し手を加えられるからと言って、いきなりマックを打ち始めて、しばらく待ってなきゃいけな
くなるんです。こんな時間にやらなくてもいいんだけどと思いながら、こちらも当然寝てないので眠くてしょうがないのに、どんどんやりはじめち
ゃって、また15分ぐらいたってある程度作品の形ができると「こういうのどう、どっちがいい」とか言われて、「前のほうがいいかな」とか言うと
「そう」とかいいながらまた15分ぐらいの作業が、カチャカチャと。おまけにデザインのしかたがまた微妙なことに5分ぐらいかかるのですよね。
口で説明すればわかるのにずっとマウスをいじって、カチャカチャとやって、明け方にそういうことをモートにやられると無性におもしろくて。それ
で2時間ぐらいその連続で、普通の人だと30分ぐらいの説明で終わることがモートの場合2時間ぐらい必要なわけです。最終的に「今しなくて
もいいよ」と言ってやっと終わりました。
1997. 8.18(Mon.)〜 カレンダーの撮影をしたり、打ち合わせをしたりしつつ、シングルが最終的に完成した週でした。
1997. 8.20(Wed.) スタジオでTHE GHOST IN MY ROOMのトラックダウンをおこなっていたのですが、なんかスタジオが臭いんです。俺とtetsuちゃんがスタジ
オにいたときに、kenちゃんが途中で「ウェッス」って入ってきて、俺とtetsuちゃんの真ん中に座り、ニューマネージャーの関がtetsuちゃんをは
さんでもういっこ向こうに座ったんですよ。でもなんか臭いということになって、関!お前と違うんかとか言って、臭い嗅いだりして、なにが臭い
んやろとスタジオ中の臭いかぎまくってたら、エンジニアの人が通った瞬間に臭かったから、ああエンジニアの人のせいじゃないかとかいろん
な人疑い出して、そのうちみんな靴の臭いまでかぎはじめたんですね。そしたら関マネージャーと、もう一人の靴のうらにウンコがいっぱいつい
てて、実はスタジオの玄関の前に犬の糞がおちてたらしく、来る人来る人みんなふんでいたらしいのです。それでもうトイレで靴を洗ったりして
、ウンコは落としたんですけど、それでもウンコの臭いがとれなくて、脱臭効果があるっていうコーヒーの出し殻を靴につけたりしてなんとかにお
いをとろうとしてました。そこにモートが現れて、「モート、ウンコ踏まなかった、そこに落ちてたんやで」とか言ったら、「あっそうなの」とかいう感
じで「今日、僕家でふんじゃった」とか言って、モートは家に犬飼っているのですよね。「なんかハンバーグみたいなウンコふんじゃったんだ、ア
ハハ」と笑って、「今日はなんかウンコ踏む日なんだね」とか言ってました。
1997. 8.23(Sat.) B.PASSの表紙撮影とかインタビューとか今週はしつつ、『虹』が完全完成して、そして僕は23日に友達の結婚式が大阪であったのでそれに
旅立ちました。大阪城の近くであったんですが、その日は僕は仕事柄歌わなくてはいけないなと思っていたので覚悟をしてました。僕の友達
というのが中学のときの友達なのですが、大学院いってて、今は研究所で魚の研究をしてる人で、奥さんも小学校の教師という、すごいお堅
いカップルで、当然親族もお堅い人たちばっかり。その親族の前で歌うっていうだけで、俺の心臓は富士山級に破裂しそうだったんです。しか
も歌を歌うのは俺だけで、カラオケの設備もなんもないとこで、天井についてるスピーカーでカラオケを流しながら、司会のマイクで歌うっていう
、かなり不安要素がつまったものだったのですごく恐かったです。大阪城ホールでやるよりもっと緊張しながらなんとか最後まで『flower』を歌
いました。普通は歌い出したら緊張とけたりするんやけど、今回は最後まで緊張しました。ちょっと間違えたけど、あの状況だとあれはベストや
ろというぐらい。結婚式自体はじめてだから、友達が結婚するのはすごく嬉しかったのでがんばりました。お幸せに。
  今回はこの短い間に、人生死ぬ間際に思い出すようなことが幾つかありましたね。モートとの出会いも面白かったけど、富士登山とか、はじめ
てのハワイとか、お友達のはじめての結婚式とかいろいろとあったので内容の濃い3ヶ月であったように思います。次号は、テレビ撮影のため
ドイツとイギリスに行く予定なのでぜひ期待してて下さい。hydeでした。