その後、さらに地殻変動が起こり土地の隆起が各所にでき、いつの間にかに海水は逃げ、大雨期を経て侵蝕等で、降水による湖となり、やがて山城盆地に巨椋池が出来たものと推察される。
当時の巨椋池は、宇治、伏見から今の京都上賀茂あたりまでいり込んで大きな湖になっていたが、その後次第に干しあがって、桂、賀茂、木津等の川が次第に形をとり始めたとようである。
昔の木津川は堤防などがなく、巨椋池は下狛の辺まで広がり、人は低い山腹に粗末な住居を構えていた。元正天皇の時代に「稲(いな)蜂間光(はちまみつ)延(のぶ)」なる「連(むらじ)」が城山の地に城壁を築き、勢力を振るっていたため、村の名を「稲(いな)蜂間(はちま)」と称し、その後、「いなやづま」さらに「いないづま」といわれた。