■九州に都があった痕跡はあるのか
前置きが長くなったが、ここから本題に入って行きたい。
最初にすべきことは、古田氏の長きファンであった者の礼節として、<序>で述べたように氏の唱えた「九州説」が成り立たないとする理由を示すことであろう。
続いて、邪馬台国がどこであったか。そして邪馬台国を首都とする倭国の実態、その点を明らかにするためのアプローチを行ってゆく。九州説が成り立たないとすることに対する補完は最小限に止めたい。なぜならそれらは倭国の実態を述べる中にすっぽりと含まれるものであるからである。
また、アプローチの冒頭では、重要であるにもかかわらずこれまでの国学者が一度も検討を加えることもなく足下に踏み固めてしまった課題も取り上げてみる。
実は、前項で触りとして紹介した日本書紀の抜粋記事もあれをそのまま歴史の証人とするためには、その課題の解決を前段として挟む必要があったのだ。日本書紀にしろ、その他、古事記、先代旧事本紀、古語拾遺など多くの資料にも共通して、その課題は解読のコードとして必要になるものである。
では、「九州説」の致命的な点を述べさせていただく。
それは「痕跡」である。
「都」があったことを示す残痕というべきものが九州説には何もないという点だ。
わたしが九州説にどっぷり傾倒してた頃もずっとそこだけが腑に落ちなかった。邪馬台国が九州にあったことを思い描く難しさに比べると、アトランティスの伝説ほうがまだ実態を感じられるくらいだった。それほどに九州説にはそこを指す直接的な証拠になるものがただのひとつもなかったのである。
痕跡は、大和のそれと比較すれば歴然とする。ヤマト周辺が列島のどの地域よりも特別な場所であった証拠は、平城京や藤原京が造営される以前においても、様々な形で残っている。
たとえば、全長100メートル超の巨大古墳。同規模の古墳は全国に303基あるが、その内の73基が奈良に、67基が河内など近隣に、合わせると約半数にあたる140基もの巨大古墳があの狭い奈良盆地と河内に集中しているという事実。
古墳データは古代史テキスト本文「大型古墳集中の謎」を参照
人の血が通った記憶を残す万葉集においてそうだ。万葉集という歌集は当時の人々の暮らしぶりを生々しく伝えるものだが、そこに謡われている場所や題材のほとんどが奈良周辺に関係するもので占められる。壬申の乱以降の作品が大半とは云え、人々の記憶の中では、東国・九州など、近畿より外部の地域が辺境というイメージであるのに対し、大和の地は次の歌のように常に華やかな憧れの場所として歌われている。
「倭戀寐之不所宿尓情無此渚埼未尓多津鳴倍思哉(やまとこひいのねらえぬにこころなくこのすさきみにたづなくべしや)」
そのような印象は風土記も同様だ。編纂自体は律令以後ではあるが、古からの地域の伝承や記録を多く扱っている点で非常に貴重な資料である。風土記のほとんどは失われてしまったが、関東(常陸)、瀬戸内(播磨)、九州(豊後、肥前)、山陰(出雲)という歴史を辿る上で重要な主要地域のものは幸運にも現存している。しかも、九州に関してはかつて存在した風土記のほとんどが逸文という形で断片的に残されているのだ。九州はそれほどまでに資料に恵まれた地域であるもかかわらず、皮肉にも奈良周辺が都であることを思わせる記述は見つかるものの、やはりそこに九州が都であったことを示唆する描写は皆無なのである。
それは史書に目を転じても変わらない。日本書紀・古事記という天皇家の史書は云うに及ばず、先代旧事本紀、古語拾遺、藤氏家伝と云った他氏族の資料や住吉大社神代記のような寺社の記録などの内容も、いずれをとっても倭国の中心地が大和であることを伝えている。
九州論者はそれらの不利な状況に対して、天皇家が意図的に全国に残る「九州に都があったことを示す証拠」をすべて消し去ったからだと主張するのだが、天皇家がどれほどの権力を持ち得ていたかは知らないが、「何世紀もの間に沁みついた歴史」を列島の隅々に至るまで完全にすべてを根絶やしに消し去ることが果たしてできるだろうか。
「いや、痕跡はある。吉野ヶ里だ」と云う論者もいる。しかしそれは強引過ぎる。なぜなら吉野ヶ里は古墳時代にはほとんど衰退し、放棄された「集落」でしかなく、それは発掘調査の報告ですでに周知されていることだ。弥生期の環濠集落というのは吉野ヶ里だけではなく、全国的に見ても同じような経緯で古墳期までに打ち捨てられてゆく。 吉野ヶ里もその中のひとつにしか過ぎないのだ。
九州説が初めて正式に登場するのは新井白石あたりからかもしれない。その後、白鳥庫吉などに受け継がれてゆくが、九州説が生まれた経緯に立ち返ってみると、痕跡がない理由はすんなりと判明する。
九州説が唱えられたその動機は「我が国の史書と海外史書との内容の齟齬」というその一点に尽きるからである。
仮説なるものが成立する過程は、本来であれば、従来説に反して別の可能性を想起させる何らかの痕跡の発見、そこから始まるものである。しかし、九州説は、単に資料内容が一致しないという理由だけで、他に確固たる確証もなく「天皇家が倭国でないなら、他にあったのだろう」という発想に至り、その対案として九州説なるものを考え出したのである。つまり、作り出された物である。そうであれば、痕跡がないのは当然であろう。
九州論者が築き上げてきた研究もそのために空しいものになっている。
古田氏は著書を重ね、様々な論証を展開した。「邪馬壹(いち)国説」「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」「九州年号」「三角縁神獣鏡」などなど、序で述べたようにそのひとつひとつは素晴らしい研究成果である。しかし、九州論者、また古田史学の面々に問いたいのだが、これらの説のどこに九州が邪馬台国であると導く要素があるのか、答えられるのであればぜひ聞きたいのである。
恐らく、いや、確実にそんな要素は思い浮かないはずだ。古田氏が?き集めた論証は「中国史書にある倭国が天皇家とは違いますよ」という点だけは十分証明できる材料になり得ても、九州論への展開へと繋げるにはまったく無関係な論点なのである。
「邪馬一国説」は「邪馬台」を「やまと」と読ませることを阻もうとするだけのことであり、「釈迦三尊像光背銘」も銘文中の上宮法皇を聖徳太子ではないとする効用しかなく、「九州年号」も日本書紀が伝える以外の年号が列島に存在したことを物語るという、それだけであり、銅鏡百枚が三角縁神獣鏡ではなかったとしても邪馬台国の所在には何ら影響がないのである。天皇家を否定しようとも、それが九州説を正当化する材料にはならない、そこを自覚すべきだろう。
そしてまた、魏志倭人伝の里程問題も一時期大いに盛り上がった。その結果、様々な場所に邪馬台国の候補地が乱立したが、方角、里程、陸海交通手段、どこをどう曲解しても北九州は通過地にしか当たらず、そこでも九州説は立場が悪い状況であった。
里程問題が出たついでに、それほど手間もかからない問題なので、次の章で里程問題も解決しておこう。
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