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待清庵の歴史と由来



待清庵 は約200年前、文化文政の頃、法隆寺 大僧都覚賢により建てられました。

覚賢 は現在の郡山城南の明和元年(1764)に生まれ、76歳という当時としては長寿でこの世を去ります。覚賢 は柳原中納言隆光を後見人とし、法隆寺に僧侶として仕え、文化九年(1812年)勃許により大僧都を賜ります。

茶道に通じていた覚賢は、法隆寺善住院に待清庵という茶室を建立
「待清庵で釜のお湯が沸いたので、お茶を一服」という手紙を仲間の僧侶に出して皆を招き、お茶を楽しんでいたと法隆寺の記録に残っています。

明治三年(1870)法隆寺善住院住職実乗という僧侶(本名樋口正輔)が住職の地位を退き、当地で家を構えます。彼は此処で住まいしながら法隆寺の録事や信徒総代などを務め、明治十~三十年代まで法隆寺の日記や公文書などを多く記しました。そして、彼は自分がかつて住職をしていた善住院の茶室を現在の蒲邸の場所に移しお茶を楽しんだのです。

茶室移築の時期や方法について、詳細は分かっていません。一旦解体したのか、或いは解体せずに土塀を壊して引いてきた可能性もあります。当時は引いて移築することも珍しくなかったようです。
茶室の門戸や室内に掲げる横に長い額である扁額 待清庵は、天保八年(1837)、前葉室山鶴峯禅師九十三歳によって書かれ、覚賢が七十五歳のときに彫刻しています。この扁額は茶室には大きすぎることから、どこか別の場所に掛かっていた可能性も考えられます。また、当時の茶釜は現在も法隆寺で保管されています。