論文 F. オッペン賢治の性とリビドー


  • はじめに

     このようなタイトルをつけると、二つの誤解が起きる。一つは、賢治の恋人探しである。中学卒業後の入院中に出会った看護婦は…、また羅須地人協会に通った女性は…、云々という話。賢治にも「人並みに」あったであろう純愛を探ろうというものだ。賢治は痩せ我慢をしていた、とでも言いたいんだろうか。

     もう一つは、春画収集などを取り上げ、「秘められた性意識」を探ろうというもの。卑猥、猥褻、変態の匂い…。要するに歪んだ性という方向で「むっつり助平」として賢治を作ろうというものだ(これはこれで面白いかも知れないが)。

     ご安心あれ。ここで述べようと思っていることはそれらいずれでもない。賢治の世界(いや「宇宙」と言う方が彼にはふさわしいか)との関わり合いの中で、賢治のエロスを取り上げようというものだ。



  • 禁欲とは何か

     さて、賢治の態度であるがやはり禁欲的というにふさわしいものだ。これは女性に対してというものではない。生活全般にわたってのものだ。

     ところで「禁欲」とは何か。ウェーバーによると、産業資本主義確立の基盤となった精神である。無駄遣いをせずに、何者か(つまりは神)のために働くこと。目的としての蓄財ではなくプロセスとしての蓄財。神に自分の働く姿を見せんがためだけに働く。ここには一種の合理主義がある。神への奉仕一点に集中する合理精神がある。

     そもそもキリスト者にとっての禁欲とは、古代ローマ時代の殉教によく表れているような、生き急ぐ人生態度である。そしてこれも合理主義だ。神一点に人生を集中すること。神のもとへ生き急ぐこと。この態度がキリスト者にとっての禁欲である。つまり禁欲とは、欲を禁じることをいうのではなく、欲を一点に集中することをいう。だから、他に(キリスト者の場合は神以外に)欲を注ぐ暇がないのである。それが禁欲という態度である。

     ここで「欲」についても考えておこう。欲とは欲望や欲求(食欲、愛欲、性欲)であり、意欲でもある。これは生きる基盤の「性=生エネルギー」だ。フロイトが言う「リビドー」である。このリビドー・エネルギーの使い方の一つの態度が、禁欲ということになる。

     そろそろ賢治に戻ろう。あ、その前にイギリスだ。

     産業資本主義の発祥国イギリスでは、ウェーバーの言う通りなのかどうか、19世紀のヴィクトリア王朝下、すっかり禁欲の国となってしまった(もちろん、これは「紳士」のお話であるが)。たぶん、イギリス人は独特の合理主義を身につけたのだろう。性欲を無くしたという意味では全くない。彼らは商売やそのほかのものごとにリビドー・エネルギーを集中して使いだしたのだ。このことは隣国のフランスと比べてみればよくわかる。フランス人は相も変わらず女性の尻を追い回していた。それに対してイギリス人は禁欲というリビドー調節の結果、たとえば自然にもエロスを見出していた。コールリッジやワーズワースの詩篇はその一端だ。

  • 賢治の感応力の秘密

     お待たせ。賢治であるが、「イギリス海岸」というのをご存知と思う。北上川のとある川岸をこう賢治が命名したのであるが、これは賢治のイギリス趣味を示している。賢治は20世紀を迎えた世界文化にたいへんな関心を持っていた(*編集部注:マンソンジュ氏の論文を参照されたし)。イギリスを中心とする禁欲という生き方のスタイルも当然知っていたのだ。

     確かに賢治には禁欲というスタイルはふさわしかった。なぜなら彼には為すべきことが多くあったからだ。そのためには「性=生エネルギー」、すなわちリビドー・エネルギーを調整し合理的に自分の限られた生エネルギーを使うことが必要であった。

     実は彼の感応力の秘密もここら辺りにあったのではないかというのが私の考えだ。彼は生身の性を絶つことによって、かえって純粋な性的存在になった。こうしてすべてのものと交わる能力を得たのだ。あるいは、始めに宇宙と交わってしまったのかも知れない。

     動物との、植物との、鉱物との、自然との交感。天体との交感、宇宙との交感。これは自然との、宇宙との交合だ。彼の目に映るもの、耳に聞こえるもの、肌に触れるものすべてに、自然の宇宙のエロスがあふれるほど感じられていたに違いない。たとえば、小道を歩きぬけるとき、伸びた野草がひざ下辺りにふんわり引っかかっては退く。これは植物のする愛撫だ。

     賢治が一人小さな手帳を持ち夜の山道をゆく姿ほど、エロチックな姿はない。彼自身、ナチュラル・ハイの状態でもあったろう。賢治のリビドー・エネルギーは宇宙と激しく代謝をくり返し、賢治は神秘的なエクスタシスを何度も何度も味わうのだ。「心象スケッチ」はそんなエロチックな記録でもある。

     彼の秘儀としての性は、言葉宇宙に交わり、感応する。感応は官能だ。

      どっどど どどうど どどうど どどう、
      青いくるみも吹きとばせ
      すっぱいくゎりんも吹きとばせ
      どっどど どどうど どどうど どどう
      「風の又三郎」
     この「どっどどど どどうど どどうど どどう」はどこから来たのか?

  • 最後に

     最後に。賢治は生身の性に関心がなかったのか。そんはことはない。性愛テクニックの博識を教師仲間に披瀝したり、春画を収集したりしていることからも明らかだ。ただ、彼にとって、性は生であり、生命や宇宙の問題であった。

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