吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

1998年11月号
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国際陰謀論、再び。--日本は餌食となるのか

▼広瀬隆『赤い楯』の衝撃

 バブル崩壊期に「国際陰謀論」が流行った。あれもこれもすべて「ユダヤ人の陰謀」というのが多かったが、私は結構この手の本を読んでいた。もしかしたら、世界の秘密が書かれてあるような気がして。しかし結局のところ、眉つばとの感じは拭えなかった。
 ところがそこに、衝撃の本が登場した。広瀬隆氏の『赤い楯』(集英社刊、現在文庫化)である。欧米の人名・紳士録を徹底的に渉猟して隠された家系図を復元し、集団陰謀の系譜を白日の下に晒した労作であった。「赤い楯」とはロスチャイルド家のことである。
 この本によれば、世界は西欧の特定集団(婚姻によって結びついたエリートたちの親戚群)によって収奪されてきた(そしていまも!)。特定集団とはロスチャイルド家ではない。ユダヤ人でもない。ロスチャイルド家を含めた国際エリート集団、英国女王エリザベス2世も含んだエスタブリッシュメントたちがそれである(この本では、ヨーロッパのエスタブリッシュメントに限って書かれてあり、アメリカには言及されていないが、当然欧米一体の集団と想像できる)。
 しかし、まあこれもよく考えてみると、身分にふさわしい者同士が結婚することが多いだろうから、エスタブリッシュメントも自然と親戚同士になっているとも言える。問題は集団としての組織性である。単なる集合なのか、目的や意図をもった組織なのかである。

▼エスタブリッシュメントの「錬金術」

 「国際陰謀論」について書いている。というのも、最近の日本やアジアをめぐる情勢がそれこそ国際的な陰謀があるのではないか、とさえ思われるからだ。
 結論を先取りすると、「陰謀」は確かにある。ただ、これを「陰謀」と呼ぶべきか、それとも「戦略」や「策略」と呼ぶべきかは判断が分かれるところだろう。
 エスタブリッシュメントの組織性について触れておこう。彼らに統一組織はない。合意した全体目的もないだろう。首長もいない。明確な組織ルールもない。彼らの立場や肩書きもバラバラである。彼らはそれぞれ自分の利益を求めて勝手に行動するだけだ。ただ、彼らは金儲けで繋がり合っている。
 最初に金を稼ぐのは、言わば下っ端の法人(規模としてはいくら大きくても)である。世界各地の様々な金儲けのための企業などがエスタブリッシュメントの一角(法人)へと金を移動させてゆく。あとはエスタブリッシュメント(法人)の「仲間」同士で金を回し合い、稼ぎ合うのである。
 この「錬金術」の中では、落伍者も出る。集金係りの企業に、流行りすたれは付き物だ。エスタブリッシュメントでも新参者は、バスに乗り遅れ、稼ぎそこなうこともある。また、それぞれ得意分野や地域や領分があり、すべての取り引きが自分の取り引きではない。取り引きごとに仲間やライバルも違うこともある。
 こういう中で、稼ぎの手を替え品を替え、仲間と合従連衡を繰り返し、生き残ってきた者こそが、真のエスタブリッシュメントたちである。
 彼ら全体にあらかじめ統一的な行動規準はないが、大勢については利害が一致することもある。このとき、彼らは共同歩調をとる。

▼軍需、石油、農産物…

 第二次世界大戦以降を鳥瞰すると、彼らは彼らの収奪体制である「資本主義」が侵されるかも知れないということで、一致して反共冷戦体制を支持してきた。
(ところで彼らにとっての資本主義とは、経済原理や理論でも何でもない。ただ、自分たちの財産が国家や国民から侵されず、また自分たちにとって有利な商売ができる体制のことにすぎない。)
 冷戦期を通じての彼らの基幹産業は軍需産業であった(アメリカでは「軍産複合体」と呼ばれた)。この商売の相手は主として国家だが、これほどおいしい相手はいない。国家予算(税金)からいくらでも引き出せるからだ。足らなくなれば、増税や国債で調達させればよい。地域紛争は軍需品を消化し、次なる軍需を作る大切な機会である。
 また、エネルギーと農産物もぼろい商売だ。何しろ、どちらも命がかかっている。石油はご存知のとおり、メジャーと呼ばれる数社によって全世界が牛耳られている。英蘭のロスチャイルド系2社と米ロックフェラー系5社だ。これらは7社に分かれてはいるが、最後の財布は二つしかない。産油国がどれだけ油田国有化をしようが、彼らの胴元ぶりに少しの変化もない。なお、原子力の胴元はロスチャイルドだ。
 農産物とは、人間が食べるものだけではない。家畜用もある(結局、こちらも人間が食べるのだが)。自国で食べるものくらい自国で作ればよいだが、なかなか現実は複雑だ。日本では、旧ガット(ウルグアイ・ラウンド)だ、日米構造協議だとやってきたが、「安くて良い品をなぜ輸入しないのか」とアメリカに迫られ、とうとう農業自由化だ。これは荒っぽく言えば、日本国内の農産物は高くて売れなくなる、しだいに日本国内で農産物は作られなくなる、ということを意味する。家畜のえさも同様で、外国産の輸入飼料が「安くてうまい」ということになっている(本当のところは、家畜たちに直に訊ねてみなければならないが)。
 これでアメリカ政府が儲かるのか。もちろん、そんなことはない。輸出元の多国籍企業である穀物メジャーが儲かるだけだ。言うまでもなく、メジャーとはエスタブリッシュメントの出先である。

▼「カジノ資本主義」の時代

 話をもとに戻すと、戦後冷戦期は軍需産業を基幹に、機械や重化学・石油産業、それに農業などで、エスタブリッシュメントは稼いできた。
 そして最近では、電子・コンピュータ産業、金融・情報産業が大きな比重を占めるようになってきている。特に、金融・情報産業が圧倒的なものとなった。これが昨今の国際金融市場の混乱を引き起こしている。
 現在、国際貿易で実際にモノが動く実需取り引きは年間約5兆ドル、これに対しモノが伴わない為替取り引きは約500兆ドルである。なんと100倍もの金が「資金運用」という名の切った張ったの博打取り引きに費やされている。「カジノ資本主義」と言われたりするが、早い話がとんでもない大博打だ。世に喧しいデリバティブなどで稼ぎまくるヘッジファンドなぞはこの代表である。エスタブリッシュメントたちは荒稼ぎの時代に入ったのだ。
 さて、冷戦終末期、エスタブリッシュメントの急先鋒であるアメリカ政府は、半ば「ポスト冷戦時代」を見越しながら、これまでは一応「身内」としてきた日本収奪の環境整備に本格的に乗り出した。「日米構造協議」という名称はともかく、中身はアメリカ流基準(アメリカン・スタンダード)の押しつけである(実は、ご都合主義のダブル・スタンダードであるが)。さらに、セルラー問題なんぞでは押しつけどころか、相当に露骨な強要であった。
 1990年のバブル崩壊についても、エスタブリッシュメントの手先の手になるもの(ソロモン証券などのデリバティブ操作によって引き起こされたと言われている)とも思われるが、ひとまず置いて、1998年に進む。

▼金融ビッグ・バンの正体

 今年始まった金融ビッグ・バンとは何か。不況脱出の決め手とのかけ声のもと、いつの間にか導入され始めたが、実は「アメリカン・スタンダード」が「グローバル・スタンダード」に名前を替えての、前者同様の押しつけにすぎない。その3原則は、経済のフリー(自由)・フェア(公正)・グローバル(国際)化だと言う。たいていの日本人は、何やら世界中から安くて良いものが買えることだと、外から良いものが入り易くなることだと錯覚させられたことだろう。
 しかし1年も経たないうちに、その正体が露見している。日本国内から良いものが出て行き、外からは悪いものが入ってくることだったのだ。すなわち、国内資金(貯蓄だ)が高金利を求めて海外に脱出し、それが海外資本に姿を変えて逆流し日本経済を賭場としたギャンブルに使われているのだ。例えば、円の乱高下はその現われである。要するに、エスタブリッシュメントが日本市場で自由に行動できる環境が「グローバル」・スタンダードなのである。
 さながら、家康に攻められた大坂城のごとし。外堀に続き、内堀も埋められたはだか城が日本である。では、「ビッグ・バン」が冬の陣だとすれば、夏の陣は? 夏の陣とは、日本の富の収奪そのものである。収奪の対象は、日本国内の不動産(土地・建物)、動産(貯蓄、株式・債権など)すべてである。
(なお、念のため申し添えておくが、負け戦には負けるだけの理由がある。政府・自民党は言うに及ばず、日本の銀行や証券などの「自滅」的な責任はそれはそれで当然問われなければならない。)

▼日本収奪計画は「陰謀」か

 「日本買収」に必要な資金は十分である。バブルでは利ざやを抜いたし、ニューヨーク市場の好調ぶりに示されるように、日本からも含めて世界中から投資が集まっている。仲間の足並みもそろっている。ターゲットは日本だ。
 まず、不良債権こそ、買われるべき富である。まもなく、日本の(実は)「優良」資産のたたき売りが始まろうとしているのだ。土地に建物、個人貯蓄に、株式・債権となんでも買いたい放題である。エスタブリッシュメントの息がかかった外国証券や銀行の本格上陸がここに来てにわかに活発になっているのは、彼らの「本気さ」の明白な証拠である。
 一方、これを「受け容れる」側の日本の体制も整いつつある。まずは、銀行救済に、つまりは不良債権処理に30兆円だ。国民には、消費促進のため大型減税だ。とにかく大判振舞い! もちろん、その財源は、国債を含めてすべて税金だ。知らないうちに、郵便貯金も使われよう(ちなみに民間貯蓄は高金利を求めて、すでに海外流出を始めている)。要するに、当然ながら国民がすべてを支払うのだ。繰り返そう。あらゆる特別措置とは国民の将来にわたる負担=税金だ。
 これを言いかえれば、日本国民は、国内の富を安値でエスタブリッシュメントたちに譲った上、その割引分を自らの借金として背負い、彼らのために一生懸命働いて返済するのである。
 このシナリオをアメリカ政府の経済戦略と呼ぶのも、エスタブリッシュメントたちの陰謀と呼ぶのも、はたまた筆者の想像による「陰謀」と呼ぶのも、もちろんあなたの自由である。

(ずいぶん悲惨な話になってしまった。救いのある「日本の行くべき道」については別稿として論じたい。)

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臓器移植問題の本質は何か

 「あなたはもうドナー登録しましたか」、これは一種の強迫ではないか。

 テレビや新聞などの論調を見ると、臓器移植は善いことらしい。ドナー登録自体については、しろともするなとも言っていない、言わば保留状態だが、重い心臓病の幼い子どもが日本では移植ができなくて、アメリカに渡り手術を受けた経過であるとか、最近では肺移植の成功とかを、盛んに報道しているところを見るとそうとしか思えない。

 ドナー登録者、つまり臓器提供者の不足が、このような患者たちに苦難を強いているのだ。人でなしでないのなら、死んだあとくらい世の中の役に立ったらどうだ、と言わんばかりである。ここには、後で述べるが、すり替えがあるような気がしてならない。

 確かに、移植しか生存の道がない人たちにとっては文字どおり死活問題で、その姿には大きく胸を打たれ、心を痛め揺さぶられざるを得ない。しかし、臓器移植は本当に善いことなのだろうか。言うまでもなく、これはたいへん大きな問題である。筆者ごときがもの申すことではないかも知れないが、今回はあえて深い「井戸」にもぐってみたい。

 移植問題には、2つのハードルがあると思う。1つは「脳死」、もう1つが「人は死すべきではない」という考え方だ。ともに死に関わることで、逆光のように「では、生とは何か」ということを照らし出す。そこに関連して、安楽死の問題もあるのだと思う。

 さて、脳死についてであるが、近頃まで人の死は心臓死しかなかった。いわゆる「脳死」の状態は人工呼吸器の登場とともに生まれた。ふつうなら、脳の死は呼吸機能を停止させ、それによって心臓が酸素不足で動かなくなり心臓も停止する。ところが人工呼吸器は酸素を心臓に送り込み、「脳は死んでいるが心臓が動いている状態」を作り出したのだ。

 しかしそれはあくまである状態のことであって、これが人の死であるかどうかはわからない。「脳死」という死は、生体間臓器移植のために要請され作られたものである。脳死は「人が決める(法的な)死」だ。誰かが生き延びるために、この人は死んだことにしよう、という死だ。

 合わせて、いわゆる植物状態の生についても一言しておく。植物状態とは脳死ではなく、自分で呼吸しているが意識がない状態だ。このようにただ生きている人は死人か。当然、生きているから死人ではないのだ。しかしこの人を生きていると言えるのだろうか。言わば、生きていることにしている生だ。

 このように人が決める「生と死」は時代とともに変わり得るのだが、テクノロジーの進展が、人は何が何でも生き延びるべきだという考え方を支え、蔓延させている。果たしてこれは、私たちにとって本当に幸福なことなのだろうか。

 何としても人は生きるべきなのか、生の意味とは何か。私は神や運命を信じるわけではないが、人は生きるべくして生き、死ぬべくして死ぬのだと思う。生の長短に人の価値があるわけではない。

 臓器移植を含めた、いまの延命術は中途半端なものである。テクノロジーが現代ほど進んでいないときには放置されていたものが、現在では大金と引き換えに少しばかりの生存が与えられる。この調子でいけばこの先どうなるのだろうか。人は死ねなくなるのではないだろうかと、私なんかは想像してしまう。

 人は死ぬべきではないか。もちろん、自殺や早世を勧めているわけではない。しかし、死ぬべきときには死んでもよいのではないだろうか。もしそうでないのなら、天寿を全うする老衰死以外はかならずや誰かの罪となるだろう。医師や医療技術、あるいは家族たちの誠意や金の不足、臓器提供者の不在など、だれかを「殺人犯」とすることになる。

 冒頭に、ドナー登録を一種の「強迫」と言ったが、思うに臓器移植問題の本質は臓器「提供」の問題ではないからだ。移植される側すなわち生き延びる側の倫理問題が、「提供」する側の「脳死」という「倫理」問題にすり替えられようとしている。

 私たち一人一人、本当はこの2つの問題を同時的に抱えている。すなわち、一方では臓器移植を受けて生き延びる側であるし、他方で脳死して生きている臓器を提供する側でもある。

 ある人が自らの生を脳死の時点までと生前に定めて、誰かに臓器を提供すること自体は、聖徳太子が飢える虎に自らの生命と肉体を与えた話にたとえて、梅原猛氏がそれを「菩薩行」と呼んでいるように、たいへんな善行であることに間違いはない。

 しかし問題は、誰かの生ける臓器をもらい生き延びる側としての私たちである。この飢えた虎のように、私たちはどうしても生き長らえねばならないのだろうか、ということだ。これは、与える死の問題ではなく、もらう生の倫理問題なのである。

 家族は、もちろんその病人を何としても生き延ばせたいだろう。ここでドナー登録を引き合いに出そう。自分の臓器を提供するかどうかを決められるのは、決して家族ではなく本人だけであろう。であれば、同様に生き延びるかどうかを決められるのも本人だけだ。

 自分が生き延びるかどうかは、家族の誠意や金銭の問題とするのではなく、本人の倫理問題として位置づけるべきだ。

 そこで最後に提案をしておきたい。臓器提供(=脳死受諾)の可否とともに、臓器移植を含めた延命治療(意識のない生も含む)の可否の事前申告をしておくことを。

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◆ 読者からのご意見 ◆

N.K. 様 から

初めまして。
 いろいろ考えさせられるMMで、いつも発行を心待ちにしています。

 今回の内容について、多少私の意見などを述べさせてください。

 臓器移植の本質は、「相互扶助」の精神だと思うのです。自分が死が避けがたいと き、その死がより有意義なものになることを自ら希望し、社会的に多数の人々がそれ を実行(ドナー登録)する事で、あたかも「保険」「共済」のように働く制度である といえるのです。つまり、臓器提供制度の普及により守られるのは、今現在の患者だ けではなく、将来致命的な疾患を得るかもしれない、自分自身かもしれないし、自分 の家族かもしれないというわけです。換言するならば、社会全体の不幸の総和を減少 させうる制度だということです。

>「脳死」という死は、生体間臓器移植のために要請され作られたものである。[mansonge 注:引用後略]

「脳死」を定義した動機は、「生体間(!)臓器移植」のためではないと思います。 「脳死」は「人間の死」ではなく「脳死体」は「生体」との立場のようですが、私は この「心臓死」から「脳死」への移行が起こった背景には、別の要因があると思うの です。
 それは「肉体」を主体とする人間像から、「精神=脳」を主体とする人間像への移 行です。人間の本質を「肉体」ではなく「精神」と考える人が増えてきているという ことです。
 そして近年の脳科学の進歩により、「脳」こそが「精神」のよりどころであるとい う理論の説得力は増してきています。理論は全て仮説にすぎませんが、より多くの人 がこの理論を「信じる」に足る説得力です。「自分」とは、頭蓋に格納され、人体の エネルギーの4分の1を費消している灰白色の物体のことなのだ、と信じる人が多く なっているわけです。だから「脳死」は自分の「死」と。

> 何としても人は生きるべきなのか、生の意味とは何か。[mansonge 注:引用後略]

 不自然な「死」を作り出すことこそが「医」の本質であり、宿命であり、使命でも あるのだと思います。それは「人間」という生物に対する「文明」の作用と同一であ ります。

コピ 様 から

 毎回、興味深く読ませていただいてます。15日付『臓器移植問題の本質とはなにか』を読みました。
 確かに、様々な問題点を含んだテーマだと思いますが、その中でも、「テクノロジーの進展が、人は何が何でも生き延びるべきだという考え方を・・・」の一節にとても共感を覚えました。
 現在のテクノロジーの進展は、人の常識や生死観、文化までも変えてしまうという点で、えらいことになってると思います。
 現に、新聞の論調になんとなく流されがちな私などは、「臓器提供の意思表明をしようか。」と安易に『いい人』のふりをしそうでしたが、しかし、それを聞いたうちの母の反応たるや大変なもので、難しいことは解らないなりに『人の生というのは全うしなくちゃだめ。』と猛反対でした。
 なるほど、一時代前までの『死』とは、現代の科学で言う脳死とか何とか人工的に線引きされたものじゃなく、人間の全機能が生を全うしたその時、なのですね。・・・・・あぶないあぶない。

(参考)「日本の脳死臓器移植を再考する
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因果な日本の行くべき道--「世界標準」を越えて

▼因果な日本

 近代以降、日本と日本人はほとほと因果な存在である。ご承知の通り、日本は欧米諸国以外で、また白人の国以外では初めて近代化(産業化)を達成した。(現在においてさえも、すべての白人の国が「先進国」になれているわけではない。)
 それでどうなったか。日本は、当時の近代化した欧米諸国にならって帝国主義活動を実行した、唯一の非欧米国であり非白人国となった。さらに言葉を継げば、欧米連合諸国を本気で敵に回して、アジア・太平洋地域の広大な戦線で長年戦い、挙げ句の果てに原子爆弾を食らった希有な国である。
 戦後は当初、唯一1ヶ国占領を受けた国であったが、その後は飛躍的な経済発展を遂げた。現在では、中国をはじめアジア諸国の経済的発展が目覚しくてややかすみがちになるが、つい先頃までは「アジアの奇跡」(欧米の悪評では「黄禍」)と誰もが認める国であった。欧米諸国の経済力を次々と凌駕し、その最大最強国であるアメリカが経済的には恐れるような存在にまで成り上がった。
 それでどうなったか。「日米経済戦争」とまで言われる中で、日本はアメリカの主張をひたすら受け容れてきた。「戦争」でも何でもなかったのだ。最近の「指令」はご存知だろう。「市場開放」「内需拡大」「規制緩和」などだ。そうして、80年代のバブル、90年代の不況となったのだが、これはもちろん、すべてをアメリカのせいにはできないだろう。

▼「経済」とは何か

 さて、いまアジアにあって、経済的苦境を強いられているのは一人日本だけではない。さらに、世界を見渡せばどこもここも不況だ。「グローバル・スタンダード」の自由な旗のもと、投機資本が世界中を駆け巡って実体経済を引き裂いたり、巨大資本の横暴が各国経済を圧迫したりしている。
 いま世界中の人々を苦しめているもの、日本がこれの復興と発展に努め、世界に誇り得るものになった途端、(少なくとも日本人の心理としては)失墜したもの、すなわち「経済」とは何か。
 経済とは「経世済民」であり、西洋では「エコノミー」であるが、両者ともその原義は近いものと思う。すなわち、経済とは第一には、生活に必要な物資を手に入れることである。そのために、ものを作り、ものを運び、ものを使うということがあり、さらに売り買いがあり、貨幣がある。これが経済だ。
 生活のために経済がある。生きることが主であり、必要な物資を手に入れることが従である。前者が目的であり、後者は手段である。本来、私たちは経済そのもののために生きているわけではないはずだ。ところが、近代化つまりは資本主義(金儲け価値主義)はこの主従をともすれば逆転させる(制度、社会システムとはそういうものだとは言えるが)。殊に、社会主義崩壊後の世界資本主義は明らかにおかしい。
 話を日本に戻すが、私たち日本人は何のために働いてきたのか。日本は何のために経済を発展させてきたのか。私たちの暮らしを豊かにし、社会を豊かにするためであろう。経済とはいま述べたように、本来そういうものだ。投機でもなければ、貨幣でもない。私たちはすでに手段においては十分に達成したのだ。あとは目的を果たすこと、すなわち豊かに生きることだけなはずなのだが。

▼いまの日本の不況、2つの途

 改めて、自分たちの暮らしを振り返ってみよう。ものはある。しかしもっとほしい。買い替えたい。食べ物もある。でももっとおいしいものを食べたい。それはなぜか。資本主義経済という終わりのないゲームが行なわれているからだ。実はそれらは、「欠乏」という必要ではなく、「欲望」という必要にすぎない。
 いま日本は不況だと言う。確かに、倒産があり失業者がいる。経済成長率も鈍化し、いまやマイナス成長だ。しかし、にぎわう街の様子を見てみよう。若者たちの様子を見てみよう。同じ「不況」という言葉、同じ「失業率」という数値などで比較される、戦後社会やいまの東南アジアの様子をよく思い起こしてみよう。まるで違うはずだ(年間消費300兆円、個人資産1,200兆円。人口2倍の好況アメリカで年間消費500兆円、しかも国も個人も借金づけ*注)。
 いまの日本の不況は、これまた、欧米社会以外では初めての、そして先進諸国中でも最先端の種類のものなのである。日本は欧米に教えてもらった(勝手に学んだ?)資本主義経済を忠実に推進し(資本主義の型の問題ではない)、いまや分岐点に立っている。
 いまの日本の不況は、高供給-高需要経済の一つの終焉を示している。高供給-高需要経済というのは、先ほど述べた「欠乏」ではなく「欲望」に従うような経済のことである。たとえれば、それは満腹の人の口をこじ開け、もっとおいしいものを無理やり食べさせる経済である。このゲームは人々に死ぬまで食べさせること、死ぬまで買わせることに勝敗がかかっている。産業経済がそういう作り、構造になってしまっており、会社はそういう高供給-高需要経済の中でしか生きれなくなっている。この需要-供給体制に一時ストップがかかっているのがいまの日本の不況である。
 分岐点の説明をしよう。一つの途は、もう一度、高供給-高需要のリズムを取り戻すことである。いわゆる「景気回復」であり、さらなる「欲望」を作り出すことを意味する。もう一つの途は、高供給-高需要の経済を断ち切り、経済と生活の関係を再構築することだ。これにはもちろん、これまでの生活価値や欲望を捨てる苦難が伴うし、産業構造の低供給-低需要への転換、すなわち会社の整理や規模の縮小、さらなる倒産や失業も必死である。

▼どのような社会をめざすのか

 経済は、暮らしを豊かにし社会を豊かにするための手段だと言った。日本の社会はどんな社会になっただろうか。「自由化」や「自己責任」が声高に叫ばれ「金融ビッグ・バン」のさ中にあるいま、あまり言われなくなったが、日本は経済的にまだまだ平等な社会だ。日本経済の成長は確かに国民全体を豊かにした。世界の各国と比較してみればよい。
 私たちは、アメリカのような社会をめざすのか。ヨーロッパのような社会をめざすのか。アメリカは経済支配の完成した貧富社会だ。ヨーロッパは階級として固定した階層社会だ。そして欧米の経済の支配者は言うまでもなく富者であり、その彼らの儲けにとって都合のよい言い分が「世界標準=グローバル・スタンダード」というものにすぎない。

▼「世界標準」を越えて

 因果な日本には、特に非欧米諸国にとって、第一走者としての役割がある。具体的に言うと、続くアジア諸国がどういう社会と経済をめざすべきか、日本は自ら示さねばならないのだ(これまでうまくいった試しはないが)。
 私は、今回の不況の意味を問うことで、欧米流スタンダードとは異なる非欧米流スタンダード、すなわち「世界標準」を越えて行くことこそが、因果な日本に要請されているような気がしてならない。また、それこそが現在の経済価値至上主義や世界資本主義(金儲けこそすべて主義、価値は金で計るもの)という、さもしい「グローバル・スタンダード」を超える価値観への途を開く、日本の真の「世界」貢献だと思うのだが。


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日本における「ケガレ」という差別

▼ケガレという差別

 日本は差別社会である。いきなり大変なことを言い出したが、そう言わざるを得ない。そろそろ年賀状を書く季節であるが、もし身内に死者が出たら、私たちは「喪中欠礼」を出し、ともに年賀を祝うことを慎む。これは何か。死を死者個人に留めず、身内全体に及ぶものと信じているからだ。いわゆる「死のケガレ」があると、認めているわけだ。

 ケガレはまだある。罪のケガレだ。犯罪人(容疑者の段階でも)の身内は差別される、だろう。いま世間で最も騒がれている例で言えば、和歌山市の砒素保険金殺人事件の容疑者の身内は「犯人」同様の非難の目を浴びているに違いない。

 わかって頂けるだろうか、日本の「差別」とは、当人だけではなくある一定の人たちをも、自分たちが属する秩序世界からはずすことを指し示す言葉なのである。これは平安時代以降のケガレと同じ構造である。かつて、ケガレは共同体(=世間)から遠く共同体外へ流すことで祓った。つまり、ケガレ(ケガレた人たち)を排除(=差別)していたのだ。

 もともとケガレは神意であり天罰だった。不慮の死は尋常ならざる神意であり、罪は天意に背くことであった。そういう呪術性をいまなお保持しているのが日本社会である。

▼ケガレと個人

 では、なぜケガレつまり日本の差別は、当人以上に拡がるのだろう。それは日本には「人格=個人」がないからだ。少なくとも、完全独立体としての個人はない。

 もし、なんぴとにも人格があるのであれば、たとえ死刑を言い渡された重犯罪人にでも、「さん」づけは当然必須だろう。もし完全独立体としての個人があるのであれば、成人した子どもの罪をなぜ親が詫びねばならないのだろう。さらに、学校の誰かが事件が起こせば、なぜ野球部が試合出場を辞退しなければならないのだろう。こんな社会に「自己」責任なんてあったものじゃない。

 差別と言えば、部落差別、朝鮮人差別、人種差別等と思い浮かぶが、それ以前に日本には差別が満ち満ちている。特定の差別だけを「差別問題」としている限りは、差別はなくならないだろう。同様に、個人の存在を前提とした「差別をなくそう」というような一般的な呼びかけでは、絶対に差別はなくならない。私たち日本人のあり様を深く考察した上で、その解決の方途を探らねば有効な対処とはならないだろう。

▼日本の個人と世間

 改めて、日本における個人とは何か。それは自分の「世間」の中にのみ、存在が許されるものである。世間とは所属である。家であり一族であり、学校であり会社であり、都道府県であり国である。もちろん、いま挙げた以外にも多様な所属(世間、共同体)がそれぞれあるだろう。

 自分の世間は多様であり、そのつど伸び縮みする。ある事柄に際して、相対的に自分が属している方が自分の世間である。乗り込んだ電車の中で知り合いと出会えば、それまでの車両というゆるやかな世間が別の世間に一変する。甲子園の高校野球では自県の高校が出場すれば自県が世間だし、オリンピックで日本人が登場すれば、自分の世間は日本だ。

 同じ世間に属する人たちを身内と言う。身内同士ではそれぞれ個人を認め合う。いわゆるホンネが話せる場が出現する。しかし一歩自分の世間を出ると、個人はない。だから、そこでは自分の世間を意識したタテマエしか話せなくなる。世間を越える「社会」での発言は、実は自分の世間に向けたものである(官僚や企業の不祥事についてのあり様をご想起願いたい)。

 この世間の存在は、欧米(=近代)標準から言えば、日本社会の「後進」性を示すものだが、「世間」は日本に限ったことではない。中国や韓国での身内優遇はご存知だろう。「世間」を持つ国の数の多さから言えば、むしろこちらの方こそが世界標準だとさえ言える。

 急ぎつけ加えるが、開き直ろうと言っているのではない。日本人は欧米とは違う社会に棲んでいることを認めること、そしてそこからしか私たちなりの問題解決はできない、ということだ。欧米と同じ地盤に乗っかっているつもりからの「差別をなくそう」では少しも問題は解決しない。

▼日本人の「罪」観

 もとより、日本社会のダメさ加減を言いたいわけではない。西欧生まれの「社会」「個人」「差別」というような言葉を使うとき忍び込んでいる、文化的バックボーンへの無視を指摘しているのだ。言うまでもなく、ケガレは日本人の聖俗秩序観=世界観=人間観と深い関わりがある。

 日本人は、個人では罪を犯さないと考えているのだ。個人の非中心性、さらに人間の非中心性がその背景にある。自然の流れの中に人間があり、個人がある。個人はその大きな流れに流されてゆくものという考えがある。相対的な存在としての人間観がある。世界全体としての自然との関わりの中で、人と人との関わりの中で(文字どおり、人と人の「間」として)個人がようやくあるという考え方だ。

 罪人が属する世間という共同体が罪を犯すのだ。とりわけ、少年たちの凶悪事件が起こる度に、新聞やテレビは学校や教育、家庭や地域社会、ひいては日本社会全体の罪状をなんとか暴き出そうと血眼になる。これは個人の罪をケガレとして拡散しようという「伝統」以外の何者でもない。また、「個人では罪を犯さない」という考えの明白な証左である。罪人を取り巻く世間という大きな流れがその個人にやむなく罪を犯させたという考え方である。

▼あいまいな解決への途

 ケガレ脱却への結論ともならぬが、ひとまずなんとか結びたい。ケガレの集合性とは個人の集合性にほかならない。集合的な個人を単純に解体分離することは日本人にとって非常な困難を伴うばかりでなく、精神文化の甚大な破壊につながるものと思われる。ではどうするか。残念ながら、妙案はまだ浮かばない。

 日本はかつて西欧近代文明を受容し、その果実をみごとに東洋の地に咲かせた。近代化には一種の聖俗分離、つまり合理主義が伴わねば成功しない。しかしながら、いまも述べてきたように日本は一面では今だ呪術の国である。であるなら同様に、罪の聖俗分離=合理化を辛抱強く完遂するしかないのではなかろうか。

 ケガレとは相互排除の構造である。自分の世間から誰かを排除し、また自分が排除される。排除しないことで排除されることを恐れて、誰かを排除するのである。だから、この循環をしだいしだいにあいまいにしてしまうことだ。

 世間の中だけにしかない個人(所属する個人)と、「その世間に所属しない個人=もう一つの私」という二つのものを持つことを、相互に許し合うこと。後者は「もう一つの公=社会」を作ることと同義である。しだいに二重化を大きくして、排除循環を無意味なものにしてゆくこと。あいまいにし、いつしか別の物にしてしまうことは、私たち日本人の常套手段ではないか。こういう回りくどいことを言うのも、少なくとも私には、いまの個人がそのまま欧米流の個人となってゆくとはとても想像がつかないからだ。


(補足としての「公私」小論)

 欧米の公(パブリック=社会)と日本の「公」(おおやけ)とは似て非なるものである(当然、プライベートと「私」わたくしも同様)。日本の「公」とは相対的な大「世間」である。自分が第一に所属する小世間(=私)とは相対的に区別される大世間にすぎない。欧米の公、すなわち均質的で絶対的「社会」ではない。

 それ故、日本の「滅私奉公」という言葉も、第一に所属している小世間(たとえば家族)ではなく、第二次的な大世間(たとえば会社や国家)に所属することを優先するという意味に解釈しなければならない。決して「私=個人」が「公=社会」に奉仕することではない。


[主な典拠文献]
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