吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

All IndexTop Page


日本の脳死臓器移植を再考する

(一)

 すでに洗脳は半ば完了している。「成功」だ。今回の騒動を国民的洗脳と言わずして何と言おうか。テレビ報道などの、あの強要ぶりはどうであったろう。イヤでもこの一世一代の「人体実験」(「脳死だ」「いや、まだだ」〜空輸〜移植成功〜経過)に共犯させようという魂胆である。

 マスコミは、いつものことであるが「中立」のつもりである。特ダネとして必死に追っていただけだ(と言うであろう)。しかし確実に、ある「空気」(見よ、ここに善人がいる!)を作り出した。これは世論操作である。少なくとも結果としてはそうである。何をどう「ニュース」として流すかは、それだけで十分な価値判断であることは言うまでもない。

 筆者なんぞは正直なところ、驚いた。いったい何事が起きたのだろうかと。他番組中に「ニュース速報」が流されるくらいの「大事態」なのだから。ニュース・キャスターが盛んに「初めてのこと」と連呼する。「初めて」であれば、何でもこうなのだろうか。まったくもって愚かしい騒ぎぶりであった。「事後報道」で十分ではなかったのか。この出来事の「生中継」に何の意味がある?


 マスコミ批判になってしまった。本題に入ろう。「ドナー・カード」のときもそうだったが、この国の「自由意志」とは「大勢」である。「いいこと」で「みんながすること」なら私もそうしようという付和雷同である。これを「社会の善意」なぞと持ち上げ、「空気」を作り出そうとしている。

 別稿で述べたが、臓器移植をただ「与えること」と考える限り、「いいこと」でしかあり得ない(と見える)。これを拒めば「人非人」である。そういう空気がいまや出来始めつつあるが、この国では、新聞やテレビで「大見出し」である「事実」が何回もくり返されれば、もうそれだけで「世論」なのである。

 しかし臓器を「もらうこと」として考えるとどうであるのか。悪し様に言えばだが、それは「生き肝を食らって」長らえることである。ここでは、当然ながら「もらう」「もらわない」の選択肢があるのである。しかし「医学」と「法」の「進歩」は、「もらわない」という選択を「家族愛」の欠如と見なす風潮を社会に作り出すであろう。生きることが断定的に「善」なのである。これは「与えないこと」が「人非人」であることと一対である。「愛」とは、実に都合のよいときだけに呼び出される「機械じかけの神」(デウス・エクス・マキーナ=ドラエモン)である。

 大きな問題なので、以下では二点ほどに絞って論じたい。一つは「脳死」定義、つまり生死の定義問題、もう一つは「生」の主体の問題、つまり心と身体の問題である。

(二)

 まず、生死の定義問題である。「法的に」であろうが「臨床的に」であろうが、死は死である。「脳死=死んでいる」ということは「生きていない」ということであるが、それは同時に「生まれる」ということを含意せざるを得ない。脳の活動が停止したときが「死」であるなら、脳の活動が開始されたときが人の「生」でありことは理の当然であろう。

 では、(残念ながら筆者に胎児学の知識はないのだが、)いま堕胎がかろうじて許されている妊娠三ヶ月の胎児には、脳の活動はないのであろうか。おそらくそうではないだろう。もとより、これは脳死云々以前からある問題ではある。しかし「死」を「厳密」に定義するのであれば、改めて跳ね返って来ざるを得ない問題である。

 この「生」の原点の問題を無視して、「死」の「厳密」な定義を新たに行ない、その後の「生」の延命だけをはかろうというのは一体何なのであろうか。おそらく胎児には「人権」が認められていないのであろう。「生死」も「人権」も「ダブル・スタンダード」と言わざるを得ない。これは臓器移植を待つ方々への言葉ではない。自分自身が「もらう」側となることを考えるための言葉である。

 さて、臓器移植のためにはその臓器が死んでいては仕方がない。そういう意味では「生きている」のである。「生き肝」と称した所以である。ただし、ご承知のように自律的にはすでに「死んでいる」人だ。言わば「生ける死体」であるが、これは人為的に作り出された状態である。では、「死体」なら、切り刻んでもよいのか。

 「脳死」定義をあげつらうように書いているが、筆者にはそれが小賢しいへ理屈に思えるからだ。まるでオリンピックの精確無比な時計作りのようではないか。生死は「0.01秒」のように測るものなのだろうか。もっとおおらかであってよい。「生きのよい」臓器を捧げ、それをいただくことが臓器提供であって何が悪いのか、と思う。ことは、厳密な脳死「定義」の問題ではないだろう。

 なぜ、臓器提供に抵抗感があるのか。「メスがこわい」という生理的な理由から始まって、いろいろあるだろう。多くは本当の「生き肝」にされること、つまり生きている、あるいは生き返るかも知れないのに「脳死」と「判定」され、そのまま死んでしまうことへの恐怖であろう。確かにその恐れは無きにしもあらずだ。(日本の「医学」はいま飢えていると言えるだろう。「病院内だけの医療」なぞは信用できない。しかしそれはいまは言うまい。)

 しかしながら、「臓器提供」の「意志」とはそんなものなのであろうか。「医学」と「法」を信任し、人智による定義では微妙な「生きている」臓器を、待ち望む人々にあえて差し出す「菩薩行」こそ、臓器提供の意志というものではないのだろうか。くり返すが、たとえ「死体」であったとしても、好き勝手にされる謂われはないのである。

(三)

 この辺りで、「生」の主体の問題に移りたい。人は確かに「心」である。しかし「身体」もまたその人である。「脳死」や「植物人間」といった「心」の状態には関わりなく、「身体」はその人そのものである。

 では、「身体」はその人(この場合は「心」が主体となる)の所有物なのであろうか。少なくとも、欧米社会ではそういう考えだ。デカルト以来(淵源にまでさかのぼれば、キリスト教受容以来ということになるが)、「心」こそ主体=その人であり、「身体」はその人の所有物であり、それは言わば物質=モノである。

 そもそも近代医学とは、そういう心身二元論に基づくことによって可能になったテクノロジーである。「身体」を「心」とは切り離して、機械と見ることで成立している。「身体」はその人そのものではない。だから「心」以外は、誰のものでも、いや何でもよいのだ。これが「サイボーグ」の思想である。そのとき、「心」とは「脳」である(「ロボコップ」を想起されたい)。実にここに「脳死」の思想が明瞭に表現されている。

 「脳=心=その人そのもの」という思想は、「人間」を特権化する思想でもあることは言うまでもない。「脳」は持つが「心」を持つとは見なされない「動物」は(人間も動物であるはずだが)、生体実験に供されている。想像してしまうのだが、もしある日、サルが話し出したらどういうことになるのであろうか。

 また、地球環境の占有化も、「脳=心=その人そのもの」という思想に基づいている。世界の中で、人間だけが「生き延びる」特権を有することにつながっている。このように、「脳死」は自然や動植物に対する優越思想に基づく、極めて「人間中心的」な考え方なのである。

 私たち日本人も、現在では大筋においてこういう考えを認めるにやぶさかではない。しかし東洋的な「身」(み)という言葉が「心身一体」の論理をよく表現しているように、「死体」をモノだとはとても思えない(これは、欧米人とて同様だとは思うが)。また、自身の「身体」を「所有物」と言うのにも、やや違和感が残るのではないだろうか。先祖・両親からの賜り物(儒教的伝統)だとは思わないまでも、「自然の恵み」くらいには思っているのではないだろうか。

 日本人は「脳」にだけ「生命」を求めるということはないだろう。それどころか、人間以外の動物やモノにさえ「生命」を認めている。モノに対する「○○供養」はそれをよく表している。「身」(み)の考えは、自らが動物である自覚から発しているようにも思う。何を言いたいのか。何から何まで「欧米・近代」流に考える必要は、何もないということである。

 先ほどの「生死」の問題に近づけて言えば、日本人には二重の生死観があるのではないだろうか。まず「身体」は受胎とともに生まれ、墓に入ることで終わる(死ぬ)。「心」は母胎からこの世に出たときに始まり、呼吸と心臓の停止で終わる。少なくとも私たち日本人は、「心」ばかりではなく「身体」の生死をも含めて、その人の存在を感じ、認めているように思う。

 これに対して「脳死」云々は(堕胎問題もこれと軌を一にするが)、心身の切り離しをへ理屈で押し切ろうとする暴挙に見えてならない。もしもであるが、全臓器、全器官を移植等に供した場合、身体=遺体は全く残らないのであるが、これに日本人は耐えられるのであろうか。問題は理屈ではないのである。「身」(み)の考えに基づく「感情」=日本人にとっての「心」の問題である。

 人はたとえ「死体」になっても決してモノではない。それでよいではないか。死んだその人の身体の一部(その人そのものの一部)が、別の人の身体の中で生き続ける。それでよいではないか。それが日本人が納得できる「臓器移植」ではないだろうか。私たちには、私たちに合った「論理」が必要であるし、それがあって当然なのである。

 最初に戻るが、筆者は臓器移植に反対なわけではない。ただ、生死の問題を「厳密な脳死とは何か」というような「定義」へすり替えたり矮小化したりすることに反対なのである。また、自分自身のものにはなっていない「欧米・近代」流の思想に安易にのっかって、特に「大勢」「空気」に流されて「善行」に走ることの欺瞞性を説いている。さらに、無責任にそうすることをじわじわと強要するような論調に断固抗議する。

 臓器を与えるのもいただくのも、また与えないのもいただかないのも、一人一人が選ぶことであり、それは見た目の生死に関わらず、実は「生命」そのものをやり取りすることに他ならないからである。


(参考)「臓器移植問題の本質は何か
head

Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved