吉外井戸のある村
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現代日本における公共空間論

 読者諸氏は、現代日本における公共空間について、いかなる感想をお持ちであろうか。少なくとも私には不快である。「公共」とは何かというやっかいな問題があるのだが、ひとまず不問に付して話を進めたい。

 「町の道」についての不満は先日吐露したので(mki-25「「わかる」ことしかわかろうとしない時代」にて)、今回は電車内という公共空間での不快を述べさせて頂くことから始めよう。

 まずは、お馴染みの携帯電話だ。使うなとは言わない。が、文字どおり「耳障り」な電話は差し控えて頂きたい。例えば、周囲を気遣わない大声電話。そんな電話に限って、どうして今そんな話をしなければならないのだ、と言いたくなるような下らない内容だ。車両という同じ空間に居続けなければならない私にとって、迷惑至極でありひどく不快である。

 次に、座り込み乗車。世の中、エライことになったもんだ。数年前には想像もできなかった光景が現実のものとなっている。ご承知のように、街中でもそこらじゅう同じ有り様だ。特に車内では明らかに迷惑である。立っているより占有面積を大きく取るばかりではなく、すぐ横に立ちにくいプレッシャーも与え、疎密差が大きい込み具合を周囲に強いている。その上、駅でドアが開いても立ち上がらない馬鹿までいる。

 さらに、車内飲食は見苦しい。お菓子やパンなどは可愛いものだ。はしを持ち、カップ麺をすすりながら食べている女子高生がいる。また、車内でのお化粧もいかがなものだろう。それから、自分はまもなく降りる車内をゴミ箱と見なす不心得者もいる。

 いったい全体どうなっているのだろう。しかしすべての行動には意味がある。「モラル」なくして行動は生まれない。すなわち、これらの行動の支えとして現代日本人における公共空間についての考え方が潜んでいるはずだ。人間は常に「合理」主義者なのだ。問題はその「理」である。

 ここで、常套の「ウチ」と「ソト」の概念を導入しよう。実は、携帯電話その他の新しい車内モラルは、これまでからあった、知り合いは「人」、見知らぬ人は「モノ」という「ウチ・ソト」モラルの拡張にすぎない、とも言える。その拡張された行動が新しい物(例えば携帯電話)を使い、その担い手が新しい物を使いこなす若い人たちだったということだ。

 では、その拡張された行動を支えるモラル(公共感覚)とは何か。現代日本にはもはや「公共」空間はない、ということだ。日本にはもともとウチとソトしかない。しかしそのソトは二分されていた。世間(非公法空間)と国家(公法空間)である。日本で「公共」に当たるのが「世間」であったが、いま世間は縮小され、消滅しようとしている。その結果、日本は私空間と公法空間とだけになろうとしている。

 世間とは何か。公法には問われないが、「迷惑」が関係する曖昧な空間である。日本ではこうよく言われる。世間の他人様に「迷惑」さえかけなければ、何をやってもよいと。この「迷惑」はまさしく公共レベルの「理」である。しかし日本社会はいつしか「迷惑」を「世間」から「公法」のレベルにスライドさせてしまった。

 「迷惑」は公共レベルではなく、公法(=犯罪)レベルでの事態となってしまったのである。すなわち、先のテーゼはこう読み替えられる。世間の他人様に「実害」(傷害や殺人)さえかけなければ、何をやってもよい(「迷惑」くらいはかまわない)と。中間的「世間」の縮小と私空間の拡大が、現代日本における公共空間を不快なものにしている。

 さらにその根を探ってみよう。問題は二つある。一つは日本人の「公共」についての考え方である。世間は自分が作ったものではなく、すでにあったもの、あるいは自然に成るもの(自分以外のみんなが作るもの)である---こういう考えが、公共空間は「自分」とみんなが作るものだとするモラルとして働かない。

 二つ目に「自由」のはき違えである。「公」以外の他人から命令されることはない、また私的に命令してはならない、という日本的「社会契約」がある。するとどうなるか。「公」が及ばない限り、公共空間は早い者勝ちとなる。つまり、公共空間は早い者勝ちで私空間と化してしまうのだ。

 かくして、公共空間は「自由」な私空間となった。公法(犯罪)を犯さぬ限り、誰の命令を受けることもないし、また誰にも命令してはならない空間となった。実際、電車内でのやりたい放題は、以上の「理」で説明可能だ。その言い分を考えてみよう。

 携帯電話は「自然に」向こうからかかってくるもので、自分が作った状況ではない。みんなも持っているケータイで、「たまたま」私は早く会話しているにすぎない。公共の音空間を早い者勝ちで一時領有しているにすぎない。

 次の座り込み乗車は、早い者勝ち行動の典型だ。そう言えば、ふつうの座席でもそうだ。日本の「民主主義」や「平等」は、結局、早い者勝ちの「自由」を教えただけのような気がする。そしてそれによって得た既得権は奪ってはならない(「不当に」奪われるものではない)ということも。電車のドアの前で動かない彼ら彼女らの目は、私たちが先にこの場所を取ったのよ、と語っている。車内での飲食や化粧も、占拠してしまえば「私空間」という感覚で「理解」可能だ。

 なお、国家以外にも「公」はある。「公」とは日本人には「管理人」のことだ(これも貧しいことだ)。つまり「家主」のことである。実はこれまでからも、世間はこれら小さな「公」によって担われてきた。例えば、電車は電鉄会社の所有で、その管理人は電鉄会社だ。だから、この車内という公共空間で「命令」できるのは電鉄会社だけなのだ。家主以外は文句が言えないというのが、日本的「社会契約」である。

 そこで、車内放送が流れる。今は「携帯電話は迷惑です」と。以前は「座席を譲り合いましょう」だった。しかし、中間的公共空間が私空間化するにつれ、小さな「公権力」である管理人の力も衰弱した。その結果、管理人の声はかき消され、公共空間は本当の「公」権力以外の命令は届かぬ「無法」地帯となってしまったのだ。そこはそれぞれの「私」の陣地取りの場である。


(蛇足)
 日本「民主主義」は、権力を「公」のものとしすぎたようだ。私「権力」の合力として公共を作ることが必要ではなかったのか。その前提として「権力」という言葉にかけられた呪縛を解き放たねばならないが。
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