吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

All IndexTop Page


「大衆」意識批判---「マンション住民」による日本国家論

▼現代日本の「常識」は世界の非常識

 「アホちゃいまんねん、パーでんねん」。明石屋さんま氏のギャグであるが、これは筆者が現代日本人に下したい言葉の寸鉄でもある。そのことは追い追い述べてゆこう。ところで、世は日韓共催ワールドカップ・サッカー大会で盛り上がっている。9日には、対ベルギー戦で引き分けた日本チームがロシアと雌雄を決する予定だ。マスコミは紙面の大きさや放映時間を、政治にどれだけスポーツにどれだけ割くかで、大いに「苦悩」するひと月であろう。

 こんな時にはいつも何かが起きるものだ。今回も、情報公開法に基づく防衛庁への情報請求者の個人情報が組織的に収集されていたという「事件」、また福田官房長官が「憲法上は核保有は可能」という発言をしたということが由々しき問題だと喧しく報じられている。ああ、全く「平和」な国である。何かトンデモない勘違いが日本人にはある。世界のどこにそんな国があるのだ。さらに言えば、敗戦以後期の日本を除けば、絶無だろう。まさに現代日本の「常識」は、世界の非常識である。

 ここでは法や憲法への合法・違法性は論じない。問題としたいのは日本人の「常識」感覚である。防衛庁事件には、いついかなる場合も「国民」(マスコミ社員)の「プライバシー」は侵されてはならないという「常識」が働いている。福田長官発言問題では、核兵器のことはもちろんのこと、「有事」を論じるだけでも戦争準備を始めることと同断であり、被爆体験と新憲法によって永久「平和」国家をめざすことを誓った日本の運命をねじ曲げることであるとする「常識」が背後にある。

▼日本国家・政府が国民の「敵」か

 現代日本政治を領導してきた言葉、すなわち平和、民主、自由、人権、人道、反差別、反戦、反核などは素晴らしい理念だ。しかしながら、本来は現実を現実的に変革していくためのこれらは、戦後の日本がかつてない「平和」で豊かな社会へと膨張していく中で、現実の時間(歴史)と空間(世界)を超越した絶対イデオロギーへとしだいに変貌、というより頽廃していき、今では現代日本人のエゴイズムのために濫用されているだけだと言ってよい境位にあると筆者は思う。

 それがよい証拠に、今それらの言葉が「国民のため」「国民を守るため」と振りかざされるとき、果たして一体、国民を何から、いかなる「悪魔」から守ろうと言うのかと考えてみればよい。これが何と国家・政府からなのである。他ならぬ日本国家や日本政府は、日本国民の諸権利を侵そうとしている「悪魔」だというのが日本マスコミ(批判オンリーの野党もひっくるめて)の「常識」である。その「病状」の進み具合はと言えば、政府ばかりか国家の存在そのものを嫌悪するまでに高じている。(注)

(注)国家と政府は区別すべきとの論がある。例えば、かつてのマルクス・レーニン主義がそうで、国家を廃絶し政府だけを残そうとした。これはご存知のように、未だ一国においてさえ実現できていない。アメリカで言えば、合衆国が国家、ブッシュ政権が政府である。確かに政府により政策は変化する。しかし、どの大統領の誓いも国旗に向かってなされている。一方日本では、国旗国歌さえ否定されがちである。これでは国家そのものを嫌悪していると言わざるを得ない。

▼マスコミの、時代を越えた二枚舌

 マスコミは国民の意見を代弁をしているつもりだろう。タテマエはともかく、少しでも戦争につながるような危ないことはしたくない、中国や韓国にインネンをつけられるのは嫌だというのがホンネだろう。あるいは、ただ漠然と、かつ無目的ながら「ええかっこ」(理想主義を国是とすること)がしたいものとしておいてもよい。「全方位外交」や「非武装中立」論は現実的には夢想だ。実際に通用しない自慰としてのニッポン的論理を国内で堂々めぐりで繰り返しているばかりなのだ。

 それでいて、分があると見えるときには豹変する。前号で述べたが、瀋陽の日本総領事館での騒動では、映像でしか見えない「真実」を盾に取り、政府を中国に対して弱腰だと批判した。「歴史」問題をテコに、外交ばかりか経済分野でも攻められ放しの中国に対して、一矢報いたいという「ナショナリズム」が、また中国政府が持つ人権意識への不信(これは日本人の方が人権には「先進」的だというおごりだ)が見え隠れしている。こうした二重性は、北朝鮮問題でも変奏されている。

 日の丸・君が代が嫌いなはずのマスコミは、ワールドカップでは別人である。かつて戦争のときに自ら行なっていた「国民精神総動員態勢」そのままに、「ナショナリズム」高揚の先頭に立ってテレビ観戦と応援を煽動している。もちろん、高視聴率を稼ぐために商売としてやっていることではあるが、誠に節操がない。殊に日本戦に関心をもたない日本人は「非国民」だと言わんばかりの勢いである。日頃の「自由」はどうしたと言いたい。(注)

(注)立場を変えて考えてもみよう。露骨な「嫌がらせ」とは言えないが、サッカーに興味がない人や日本チームを応援したくない人たちにはおそらく辟易する内容だろう。これまたマスコミが批判しつつも同時に「国民精神総動員態勢」を敷いた、1989年の昭和天皇葬礼時のような有り様だと言える。

▼政府とは国家の「管理者」か「管理人」か

 話を戻そう。政府と、これに異議を唱える野党やマスコミという対立図式がある。後者は国民の声を代弁しているつもりだ。だが、果たしてそうか。国民は野党やマスコミに共感しているのか。残念ながら、大半は無関心と言ってよい。これは「温度差がある」と言ったようなものではない。全く関心がない。ワールドカップ・サッカーへの熱狂は「大衆」としての関心である(以降、国民と区別して「大衆」という言葉を用いる)。そして、実は与野党、マスコミ、本来の国民も、大衆化しつつある。

 いわゆる「民主」勢力が一貫して要求してき、いまも求めている「政府」とは、言わば「管理者」ではなく「管理人」の役割だ。それはまるでマンションの管理人の役目なのだ。政府とは、本来こと細かな「管理」を行なう組織ではない。国家の目標を定め、そこへ導く戦略を立案し、諸施策を実行管理することが仕事である。これは社長など会社の経営管理者の仕事に喩えることができる。しかしマンションの管理人が行なう「管理」はこれとは違う。

 管理人はマンション住民のエゴイズムを調製し、ゴミの出し方やペットの飼い方等ささいな日常生活のルールを定め、要求や要望のあった修理や修繕を行なう。こういう世話役が管理人である。本来管理者であるべき役割の管理人化は、日本社会のそこいら中で進んでいる。学校は特にその「先進」地帯で、教師は校長を管理人と見なし、同時に自らも指導者を放棄し、管理人に成り下がっている。また、その生徒も同じで、かつての学級委員は今では「クラス委員」という名の世話役に過ぎない。

▼「大衆」意識の政府批判は「マンション住民」による日本国家論

 マンション住民は誰にも干渉されずに、勝手気ままに振る舞いたい。管理費という金さえ払えば、あれこれ口出しされる筋合いではないと思っている。「公共の福祉」なぞチャンチャラおかしい。社会ルールの強制は「自由」の侵害であり、お節介は「プライバシー」の侵害なのだ。実際、街にはこの精神を体現する人間ばかりではないか。若者だけではない。この感覚がそのまま国家論となっている。税金さえ支払えばそれでいいだろうと、「面倒なこと」は管理人として「委託」した政府に押し付けて、それですべてが済んだつもりなのだ。

 その政治意識はせいぜい良いところで、住民運動レベルだ。しかしこれとて、地域エゴイズムを絶対「理想」イデオロギーで包み込んだ代物にすぎない。原発はどうして田舎にあるのか。必要なゴミ焼却施設や産廃処理場をどうして発生地近くに作らない。難民受け容れを言う前に、浮浪者(ホームレス)を自分の町に受け容れたのか。難題を国家・政府に押し付けることが大衆の「政治」課題だ。大衆は、国家なぞは要らないと思っている。

 こういった思考の総決算が「平和防衛論」なのだ。その「平和」とは何か。いまあるがままの日常である。それこそ、戦争なんていかなる理由があろうと真っ平御免である。なぜなら、自分のためではなく、国家(管理人)や国民(他人:日頃つき合いのないマンション住民)のために命を投げ出すようなことはバカバカしいだけだからだ。大衆に国家を論じることはできない。しかし「日常防衛論」とも言うべき思考は、マスコミや野党が主張するタテマエの裏に確実に張り付いている。「大衆」意識に基づいた政府批判は「マンション住民」による日本国家論だと断じてよい。
head

Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved