吉外井戸のある村 M'S CLINICAL SOCIOLOGY

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日本人は「道徳」によって何をめざすのか

 話は単純なほど面白いらしい。マスコミは絶対の立脚点を得たと思えたとき、正義の神の仮面を被る。例えば、民主党・古賀潤一郎議員の学歴詐称問題である。卒業してもいないのに、アメリカのとある大学を卒業したと自らの学歴にちゃっかりと書き込んでいたらしい。「議員は嘘を吐いてはいけない」ということが、この場合「絶対の立脚点」である。錦の御旗はこちらにあると、マスコミはまたぞろ臆面もないやり方で「取材」という名のほとんど暴力を振るって恥じるところがない。[注1]
 もちろん、非は古賀議員にあることは言うまでもない。だいたいこの男、少しオカシイ。自分がその大学を卒業していたのかどうか、わざわざアメリカくんだりまで出かけて調べなければ分からないらしい。もしこれが本当なら、この男はどんな生活を送っているのだろう。自分が毎日何をしていたのか、タイムマシンにでも乗って調べにいかなければ、確証をもって何事も語れないと言うに等しいではないか。そういう意味で彼に議員辞職を迫るのなら、筆者も賛成だ。

 だが、事はそうではない。経歴の一部が虚偽であったから議員失格だという言うのだ。まあ、そんな辞め方もあっていい。しかし日本中を引っかき回すようなこの騒ぎは何だ。そんな大事件や大ニュースなのか。ニュースの名にも値しないではないか(せいぜい三行記事だ)。これは結果として、日本社会に対する抑圧的な方法による「不毛」な道徳教育キャンペーンに他ならない。「不毛」と言うのは、道徳が現実全体と無関係に絶対化されているからだ。絶対的な「自由」と同じく、つまりは非現実的な国民教育なのだ。

 芸人の真の価値が芸によって決まるように、議員の価値とは政治活動以外にはあり得ないだろう。人間の善悪が「良い」議員であるかどうかの基準なのだろうか。このキャンペーンはあたかもそうだと言っているのだ。ならば、記者こそ絶対に善人でなければならないと筆者は思う。だが、議員や記者に限らず、私たちも善人でもあれば悪人でもあるのだ。それが人間だ。確かに議員などが、たとえ政治活動とは違っても嘘を吐くことは勧められない。しかし、それがまずありきなのか。

 筆者なぞは、この事件から高校野球を連想する。作られた「高校球児」神話だ。丸坊主で野球に青春のすべてを捧げる爽やかなスポーツ青年、という虚像である。「実像」はマスコミがあえて採り上げなければ表面的には何も分からない。だが、暴力事件などによって「実像」が表面化すれば高校球児の資格を失い、彼らは「高校野球」界から排除される(ケガレの排除)。かくて、残りの「高校球児」は常に虚像通りに清浄なる存在たり続けられるのである。これも典型的な道徳教育キャンペーンだ。

 無論、すべての高校球児が隠さなければならない「すねの傷」を持っているということではない。筆者が言いたいことは、高校野球とは文字通り高校生たちによる野球にすぎないということだ。そこにはいかなる道徳的なものもない。そして野球であるのだから、野球ルールを守る限り、勝利に向かってただ邁進するだけのものである。しかし甲子園に代表される「高校野球」はそうではない。まず道徳的な「野球道」としてあることが要求されている。ここに道徳の教育が隠されていると思う。

 ついでに言うなら、先日の西宮戎神社での「福男競争」騒動がある。消防士が1等を勝ち取ったが、実は不正があったという「事件」である。これもわざわざ全国ニュースにして流すべき「ニュース」なのか。事の是非を騒ぐ前に、まずその見識が問われなければならない。神事はたいてい喧嘩(あらかじめのルールはない)だと昔の人間なら知っている。オリンピックでもスポーツでもないのだ[注2]。それをテレビ中継して、あたかも「スポーツ競技」に仕立て上げたのは一体誰だ。非難しているのと同じ連中ではないか。
 ここまで「マスコミ」と書いてきたが、この言葉は「日本人」と言うにほとんど等しい。マスコミに違和感を感じている日本人は着実に増えているが、まだまだ足りない。だからこそ、マスコミの嘘がのさばるのである。そのマスコミが考える「道徳」の虎の子としてあるのが「イラク自衛隊派遣」問題である。お察しの通り、これも道徳教育キャンペーンだ。なぜなら問題の訴求点が「人を殺す、殺される」かも知れないということにあるからだ。

 道徳的な報道はしばしば不道徳だ。日本のマスコミの報道ぶりは、自衛隊がテロで殺されるか、それとも応戦してテロ組織のアラブ人を殺すかを今か今かと待ち望んでいるとしか思えない。彼らが言いたいことはもちろん、そもそも自衛隊の派遣が良くないということだ。だが、その論拠が日本人が外国人に殺されるかも知れない、あるいは殺すかも知れないということであることはいかがなものだろうか。率直に言って、現実世界と触れるどころか向き合うことさえ恐れているとしか筆者には思えない(ウチとソトの論理。国際事故での「日本人の犠牲者は…」の報道感覚を想起せよ)。

 派遣の是非論議は一定には理解する。だが、自衛隊派遣を論じるに抽象的で理想中立的(=国内論理的)な人道主義的道徳をもってとやかく言うのはいかにも日本人的な道徳感覚だ。政治的リアリズムがない。そもそも人に殺される、人を殺すこと自体は別にイラク自衛隊だけの問題ではないことは自明であろう。では、国内の自殺や殺人、交通事故はどうなのだ。いずれも不当な死であろう。この問題を殺人などと同列に扱うのは、全く不当な「道徳教育」に他ならない。

 残念ながら、日本人の「道徳」とはこのようなレベルなのである。表面的に内外の人に非難されないようにすること、抜き差しならぬ立場にならないようにあらかじめ避けること。そして、明らかに「不道徳」な者へは自らは不道徳に対しても宜しい、というのが日本人の「道徳」なのだ。こんなものは道徳でも何でもない。スケープゴート(犠牲)を見つけての、日頃のルサンチマン(怨念、復讐心)晴らしである[注3]。これが今の日本人の道徳なのだ。さて、日本人はそんな「道徳」で何をめざそうというのか。
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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved