吉外井戸のある村 M'S CLINICAL SOCIOLOGY
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■2004年11月、ケリー大統領候補は誰に敗れたのか■
―米大統領選と民主主義、大衆が示した一般意志
2000年に続き大接戦となった2004年の米大統領選(一般投票)は、前回の勝者、すなわち現大統領ブッシュ氏の再選が決まった。ニューメキシコ・アイオワ・オハイオの3州が未決着のまま[注1]だったが、選挙人数20人を擁するオハイオ州の暫定票の行く末を鑑みた民主党のケリー候補が「敗北宣言」してブッシュ氏の勝利と決まった。前回と違い、総得票数でもブッシュ氏がケリー氏の得票を約350万票の差をつけており、ねじれ決着は免れた。
[注1]その後、ニューメキシコ・アイオワ両州は決着。それにしても、アメリカの、各州ごとの悠長な選挙システムは、生真面目な日本人には苛立つばかりだ。定刻通りに来ない電車を待つ気分なのだ。
だが、日本人には州単位の《Winner takes all》方式、つまりその州の勝者が大統領選抜本選挙における全選挙人を確保することが不合理に映る。「すべての民意を反映させる」民主主義に甚だ反するように思えるのだ。ここには日本人は気づかないが、「野球」を《baseball》と同一視して憚らないのと同様の文化的な誤解がある。日本人は自分たちの「民主主義」をアメリカの《democracy》と同一のものだと思い込んでいるのだ。しかし、両者の間には大きな溝が横たわっている。
通俗的にはアメリカ合衆国は「合州国」だから、州(幕藩時代の藩のようなもの)単位で大統領候補を選び出すのだと言われる。それはその通りなのだが、中身は日本的な意味合いとは異なる。州単位の一般投票とは、州ごとに「一般意志」を形成するものなのである。この一般意志とはフランス革命の思想的指導者とされるルソーの考えに拠る。ルソーは、人民の意志は単なる総和(日本人の多数決)ではなく、一個の人格と同様なものとなってこそ、政治主権の基礎となり得ると考えた。
つまり、州選挙は言わば一人の人格の内面で展開される、あれかこれかの決断までの葛藤ドラマなのである。だから、選挙結果はあくまでも「統合された1つの意志」である。矛盾を呑み込みながら、最終決定した意志なのである。日本人の言う「死票」はない。人間は統合された一個の人格だからである[注2]。獲得される州ごとの選挙人数は、その後に行われる全州規模での本選挙に人口比を反映させるための便宜にすぎない。
[注2]少数派も多数意見に従うのが《democracy》である。ただし、多数派は決議案の限りにおいて、少数派を排斥するのではなくむしろ保護しなければならない。
この一般意志という《democracy》の考えを理解していない日本人始め、「新アメリカ人」が急増中の近頃のアメリカそのものでも、総取り方式に異議の声が挙がり始めている。《democracy》の立場からすれば、これは《democracy》の何たるかを知らない者の戯言なのである。もし日本人が本気で《democracy》に反撥するのなら、翻訳文化ではない「民主主義」を創始する覚悟とその実践が必要であることは言うまでもないであろう[注3]。
[注3]確約してもいいが、日本のマスコミにはその覚悟も知恵もない。ただ、したり顔で遠吠えするだけだ。
アメリカの《democracy》には一般意志が貫かれている。大統領選の敗者が敗北宣言をし、勝者が勝利宣言を行うというのが米大統領選の決着儀式であるが、これもその一環なのである。今回の選挙では「アメリカの分裂」という言葉がマスコミによく上り、あたかもそれを修復せんがために、ケリー氏が敗北宣言で国論分裂の克服を訴え、ブッシュ氏もこれに同意して「1つの国」作りを民主党支持者にも訴えたと報道されている。
どこか違う。4年に1度の大統領選の度、アメリカ国家は新しい一個の「人格」形成のために、あえて分裂し再統合される。言わば、死と再生をくり返している。そして、新生の大統領は共和党でもなく民主党でもなく、統合された国民の一般意志の体現者でなければならない。つまり、「官軍」の長ではなく、「賊軍」(死票、少数意見)をも平等な国民として取り込んだ大統領でなければならない[注4]。「人格分裂」をそのまま許してしまう日本の「民主主義」とは大分違う。
[注4]これが「1つのアメリカ国家」に言及する、敗北・勝利宣言の儀式である。ただし、実際の米大統領がこれをどう実践できているかは別問題である。《democracy》の理念、米大統領選の考え方について言っている。
[注5]蛇足。ここまで述べてきたことを根底からひっくり返すようで恐縮なのだが、ブッシュ対ケリーの戦いはあれかこれかに過ぎない。何を言いたいかと言えば、アメリカ国民に第3の選択はないのである。これが二大政党制だ。《democracy》は別に二者択一の考え方ではない。このことに関しては前回選挙時に書いたのでそちらを見てもらいたいが、要するにどっちにころんでも米支配者層には大丈夫という政治システムが二大政党制なのだ。
以上、米大統領選システムにおける《democracy》と「民主主義」の違いについて述べてきたのだが、今回の選挙で浮かび上がってきたアメリカ社会の様相について少し述べておきたい。今選挙に向けて、映画『華氏911』を制作・公開したマイケル・ムーア氏に典型的に見られるように今回の対立軸は、現職ブッシュ大統領の継続か、それとも転換(反ブッシュ)かということだった。後者の候補がたまたまケリー氏だったのだ。
ベトナム戦争時以来と言われる高い投票率にもかかわらず、結局、ケリー氏は敗れた。これはなぜなのだろうか。まず1つは、アメリカ政界も日本同様の駒なし状態に陥っている。全国民的に圧倒的な支持を得られる候補者がいないのだ。「政治に人なし」は、米社会が牽引し日本社会が展開する「ポストモダン社会」[注6]での共通現象となっている。ケリー氏はブッシュ氏に敗れたというより、このポストモダン社会の「大衆」にこそ敗れたのではないだろうか。
[注6]新段階に入った高度資本主義社会。高度消費社会、IT化社会。政治的にはポスト冷戦社会。大義を失った「戦前」社会。
今回の選挙での州ごとの勝敗地図を見ると、東西両海岸部はケリー氏、内陸部はほぼブッシュ氏の勝利という鮮やかな色分けとなっている。映画『華氏911』への賛否も、おそらくこの色分け地図通りではないのだろうか。今回の選挙は、イラク戦争への賛否ではなく、信仰・中絶・同性愛などをめぐる生活価値観の選択とも言われた。両海岸部のインテリ・文化人の価値観と内陸部の大衆が有する価値観との対立である。
通俗的に言えば、「進歩派」と「保守派」の価値観の対立だ。結果は「保守派」の価値観の勝利となった。思えば、ポストモダン社会は奇妙な社会である。表面的には華々しい新文化が百花斉放しているように見えるが、個々の生活は地味で保守的なものなのだ。マスコミが重点的にそこで取材し情報を発信する中心地、ワシントンやニューヨークやロサンジェルスは、実は普通の、大衆のアメリカではない。東京が日本ではないように。
だが、全国民を投票者とする国政選挙ではこの大衆の広い支持なくして勝利はあり得ない。選挙という方式に立脚する政治制度は、ポストモダン社会において、おそらく今後ますます「保守的」となっていくのだろう。注意しておくが、これは戦争賛成なぞを意味しない。むしろ、外交や国際関係問題より、内政、つまり自分の生活周辺の安全などを保守してくれる、視野の狭い政策や政治を大衆は優先するだろうということを言っているのである。いつもながら、アメリカ社会は日本社会の行く末を暗示している。
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