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mansongeの「ニッポン民俗学」日本神話の深層についての一考察「地の王・天の王」
―天孫たちはなぜ海神の娘と結婚したのか、あるいは天照大神はなぜ女神なのか
▼天孫たちは「地の王」と婚姻を結んだ
「海と天皇」という面白いテーマがある。「海と天皇」とは、天下った天孫たちの血筋が海神と深い関わりがあることを指す。初代神武天皇の母は玉依姫[注1]という海神の娘だ。神武の父はウガヤフキヤアエズ尊というが、この尊の父は彦ホホデミ尊、母は豊玉姫である。彦ホホデミ尊とは、「日向神話」の海幸・山幸物語で名高い山幸彦のことだ。母の豊玉姫は玉依姫の姉で、ウガヤフキヤアエズ尊を産むときに「ワニ」の正体を現したことで有名だ。そして彦ホホデミ尊の父が、アマテラスの命で降臨した天孫ニニギ尊なのだ。このように、神武の母も祖母も海神の出自で、彼の血の半分以上は海神のものなのである。
(天孫の系譜)
アマテラス―天オシホミミ尊―ニニギ尊
├――――――┬ホデリ命(海幸彦)
大山神(ヤマツミ)―コノ花サクヤ姫 |
└彦ホホデミ尊(山幸彦)
├――――――ウガヤフキヤアエズ尊
海神(ワタツミ)―┬豊玉姫 ├――――――神武天皇
└――――――――玉依姫
[注1]「玉依姫」や「豊玉姫」はタマ(魂)の姫ということで、名自体に大した意味はない。しかしかえってそれが重要な意味を持っている。すなわち、固有人名になる以前の普遍的なタマ(霊エネルギー)の存在を指し示しているからだ。
神話をもとに、歴史の記憶を読み取ることもできる。「天つ神」を「天孫族」という渡来集団と捉え、朝鮮半島からやってきた騎馬軍団だとする見方が代表的な一例だ。その場合、「国つ神」は先住民ということなる。そして、「海神族」はもう一つの「アマ」である「海人族」で、黒潮に乗ってやってきた海洋民とされる。天孫族は国造りに当たり、海人族の力を吸収してから、先住民を支配していったという物語になるわけだ。「日向神話」は海人族伝承のもの[注2]で、これが記紀に挿入されたとみる。ちなみに、梅原猛氏にはずばり『海人と天皇』というタイトルの著作もある。
[注2]「海人族」は隼人と呼ばれた南九州の人々ではないかと言われる。また、海幸・山幸物語が西太平洋に広く流布している神話の一ヴァリエーションであることは事実だ。
だが、ここではそう読まない。神話は神話なのだ。歴史の記録ではないし、また日本人の集団記憶でもない。まず、普遍的な人間の精神に刻まれた深層の記憶として読まなければならない[注3]。この一連の「海と天皇」神話は、日本の支配者たる天皇が「地の王」の正統な継承者であることを説いている。この「地」とは、「天」と対になるものだ。「天」に対する「地」には、海や山も、そして地にある水も含まれる。言うまでもなく、山の水は川となって海に注ぎ、また地下水は地の世界をめぐっている。つまり、海神は水神でもある。さらに、地中の冥界の神でもある。竜宮城とは、海中に見える黄泉国だ。そして、その神は農耕を司る大地の神でもある。これが「地の王」だ。
[注3]小論では、紀記神話をあえてこの立場で読み進める。言わば、ユング読みだ。そのことをご承知おきたい。
ニニギ尊の妻は、大山神という山神の娘・コノ花サクヤ姫であった。彼女も「地の王」の娘なのだ。また、神武の妻は三輪山の蛇神を父とする娘だ。蛇とは水神であり、竜神である[注4]。彼女も「地の王」の娘だ。以上で、ニニギ尊から神武天皇まですべて、「地の王」の娘を妻に迎えており、だから当然のことながら母が「地の王」の娘であるということになる。「地の王」とはその本質においては母性原理、つまり女神である。こうして、「地の王」の正体とは、地に実りをもたらす大地母神であることが分かる。
[注4]「竜宮城」の主はだれか。竜神でなければならない。海神=竜神=水神=「地の王」なのである。
▼母性によって要請された父性原理が「天の王」
では、「天の王」とは何であり、それはどこから来たのか。記紀は、地とは別に「高天原」という所があり、そこが天つ神の源郷とする。しかしそこの神は、ユダヤ・キリスト・イスラム教の神、また中国の天帝などとはひどく異なる。彼らがすべて男神なのに、高天原の主神・アマテラスは女神だ。記紀神話で主要な祖神とされる、天御中主・高御ムスヒ・神ムスヒの三神のうち、二神は「ムス-ヒ」(産-霊)の神である。ムスヒとは世界(天地)創造のエネルギーと考えられるが、本質的には「地の王」大地母神が持つ産出・豊穣力に他ならないだろう。
ユダヤ教のエホバから中国の天帝[注5]まで、実は一つの道によって結ばれている。ユーラシア北部を走るステップ・ロード(草原の道)である。彼らは騎馬遊牧民の神なのである。それは父性原理で、人格神で、世界を操作する神で、形のない目には見えない神だ。では、この神が「天の王」か。そうではない。彼らは絶対神で唯一神であるから、「天の王」や「地の王」という相対神や多数神なぞは認めない。「天の王」とは、実は「地の王」が自ら産み出したものだ。
[注5]中国における「天」の思想は、騎馬遊牧民とのつながりの濃厚な周王朝がもたらしたものである。儒教の天や天子の思想はこの系譜に連なる。
「天の王」の代表的な姿は、太陽だ。陽の光で女性が身ごもり、神の子を産む伝承がある。例えば、古事記の天之日矛(あめのひぼこ・天日槍)がもらいうけた赤玉(美女となる)は、新羅のアグ沼のほとりで眠っていた女性が、秘所に射し込んだ陽光を浴びて産み落としたものだった[注6]。この陽光は、厠(かわや)にしゃがんだ女性の秘所を丹塗りの矢となって突いた蛇神(三輪山の大物主)と同じ、男性原理を表している(こうして産まれたのが神武天皇の妻となった娘である)。
[注6]朝鮮神話の神聖王は皆このパターンで誕生する。陽光を感じて女性が卵を産み、それが王に育つ。
こんな風に懐妊した妻は夫に貞操を疑われた。それはそうだろう。陽光や丹塗りの矢なぞで妊娠したとは、誰も信じない。ここに横たわるテーマは「母と、父なし子」である。父が誰か分からない子が産まれるという神話だ。これを「処女受胎」や「神聖受胎」と言う。「地の王」は母神・女神であるが、女性だけでは子は産まれない。そこで「見えない男性」が呼び出される。このように、母性によって要請された父性原理こそが「天の王」である。それが太陽であり蛇なのだ。
雷は「稲妻」(妻とは今の夫も指す)と呼ばれる。地に属する稲は母性で、これに天からの父性の稲妻が交わることによって、稲は命を宿す。実は、雷はヤヌス(二面神)だ。騎馬遊牧民の生活に淵源を発するユダヤ教など〈天の宗教〉では、雷は豊穣をもたらすものではなく、神の怒りを体現するものであった。これが農耕世界に侵入することによって、雷神の性格は二重化する。中国のいまの「竜」も、そういう複合によって形成された。
整理しておこう。〈地の宗教〉は「地の王」地母神の世界観で、欠けている父性原理を自ら「天の王」として産み出す。〈天の宗教〉はこれとは別個にあった世界観だ。〈地の宗教〉の地に〈天の宗教〉が広がることによって、〈地の宗教〉の「天の王」が〈天の宗教〉の天に取って代わられる。そうして、従来は地に対して従属的であった天が、地と対等のものとなった。例えば、中国の易の陰陽はこのようにして成立したと考えられる。さらに言えば、キリスト教世界では逆転、すなわち〈地の宗教〉の抹殺が図られた。〈地の宗教〉の聖獣である蛇や竜(ドラゴン)の悪魔化がその一例である。
▼アマテラスは「地の王」が「天の王」となった神
八幡神は日本宗教の謎である。最初の神仏習合神だったことだけでなく、偉大なる母・神宮皇后とその子・応神天皇という母子セットの神だからである。この宇佐八幡宮の祭神は、延喜式によれば、オシホネ命・辛国オキナガ大姫大目命・豊姫命の三神である。オシホネ命の名はアマテラスの御子神オシホミミ尊に似ている(系譜参照)が、応神天皇だとされている。その母オキナガ姫は神功皇后とされるが、彼女の祖は赤玉をもらった新羅の王子・天之日矛であり、「母と、父なし子」のイメージがダブる。
朝鮮神話には、明確に母子信仰がある。これを「アル」と言う。母神のことであり、彼女が産んだ卵や子[注7]のことであり、一体としての母子も指す。八幡神の「豊姫命」とは何か。その本質は「タマ」であり、ウガヤフキヤアエズ尊の母・豊玉姫と同じく、「地の王」の娘であり、大地母神の霊エネルギーを示している。この「豊姫命」=母神=アル信仰こそが八幡神の元型である。それが具体的な母子名として、八幡神では神宮皇后と応神天皇として展開している。
[注7]アルの子は、母神が自ら産み出した父性原理「天の王」であり、太陽神でもある。そして「天の王」は子でありながら、女神の夫でもある。アルがなぜ母子神であるかと言うと、母神が必要とする「父性」を自ら産み出したからだ。それは子として得られる。しかし欲していたのは子ではなく自らの夫なのである。
また、アルの子は「太子」と呼ばれるが、「聖徳太子」もそういう命名だ。母ではないが女帝推古天皇とセットであったり、誕生譚に馬が登場することも後述のイエスと似ていて興味深い。
キリスト教のイエスもアルだ。聖母マリアが「父なし子」を産んだことはご存知だろう[注8]。「処女受胎」である。その父はエホバ神とされるが、これは〈天の宗教〉が〈地の宗教〉の地に侵入することで父が入れ替わった結果である。アル神話としての本当の父は「天の王」でなければならない。実は、父性原理のキリスト教ローマ・カトリック教会では、何と20世紀半ばまで聖母マリアの聖性を正式には認めてこなかった。アル=母子神=大地母神である聖母マリアを認めることは〈天の宗教〉の敗北を意味したからだ[注9]。
[注8]神の幼な子イエスを胸に抱いた聖母マリア像(冒頭画像参照)をよく見るが、この「母と、父なし子」の母子像という元型ははるか古代文明以前に遡る。母子相姦や姉弟相姦などの主題もこの延長線上にある。さらにイエスの死体を抱くマリア像を「ピエタ」と言うが、これは大地母神の霊力による復活を待つ姿に他ならない。イエス・キリストの復活も、「死と再生」を司る〈地の宗教〉の地平の中でこそ初めて理解できる。
さて、以上のように考えると、わがアマテラスの正体も見えてくる。アマテラスは大地母神「地の王」自らが天に昇り、「天の王」である太陽となった神だ。だから、女神なのだ。本来、男神が果たさなければならない父性原理を女神が行なうのが日本神話である。彼女がアルであることは、八幡神の母子名にも隠されている。太子の名から連想されるオシホミミ尊の母は、神功皇后ではなくアマテラスだ。それに孫のニニギ尊を真床追衾(まとこおうふすま)にくるみ、下界へ送り出す姿は、まるで母マリアと幼な子イエスのようで、日本の聖母像そのものではないか[注10]。
[注9]1950年の教皇令によって、聖母マリアが昇天したことがようやく認められた。これを「聖母被昇天」と言う。一般信者の間では早くからこれは常識で、8月15日を「聖母被昇天の日」として祝ってきた。これは「クリスマス」がキリスト教布教以前の大地母神祭の復興であることと同じで、〈地の宗教〉のもう一つの復活と言える。
[注10]天孫ニニギ尊はやはり男神だ。だからこそ、彼らは「地の王」と婚姻を結んだのだ。しかし、「地の王」であった自らは天に昇り、孫とはいえ「天の王」に属する男神を地に下ろすとは、逆転の発想で大変興味深い。なお、太子オシホミミ尊は天に残り、アマテラスとのアルが形成されている。天下りがなぜ「孫」だったのかは、母子神=アルを温存するためだったとも考えられる。
アル信仰は見えにくくなっているだけで〈地の宗教〉があった所、つまり世界中と考えてよいが、キリスト教徒が深層で聖母マリア信仰を求め続けてきたように、いまも生き続けている。聖徳太子への太子信仰もそうだが、アメリカで始まった「母の日」が日本で盛んなのにはそんな理由も伏在していると考えてよい。父性原理が圧倒的なキリスト教世界とは対蹠的に、母性原理が太陽神アマテラスとして日本神話の深層に、そして日本人の精神の深層に脈々と流れている。
[主なネタ本など]
石田英一郎『桃太郎の母』講談社学術文庫
(参考)
ユング『ヨブへの答え』みすず書房
mjf-081 水神の話:「河童駒引」をめぐる動物考―馬・牛・猿
mjf-051 宇佐八幡神は新羅の神だった